さんがまた旦那様《だんなさま》を亡《な》くなして、未亡人《びぼうじん》になるとか」
 継子は少し怪訝《けげん》な顔をしてお延を見た。
「延子さんは宅《うち》にいた時と、由雄さんの所へ行ってからと、どっちが気楽なの」
「そりゃ……」
 お延は口籠《くちごも》った。継子は彼女に返答を拵《こしら》える余地を与えなかった。
「今の方が気楽なんでしょう。それ御覧なさい」
 お延は仕方なしに答えた。
「そうばかりにも行かないわ。これで」
「だってあなたが御自分で望んでいらしった方じゃないの、津田さんは」
「ええ、だからあたし幸福よ」
「幸福でも気楽じゃないの」
「気楽な事も気楽よ」
「じゃ気楽は気楽だけれども、心配があるの」
「そう継子さんのように押しつめて来ちゃ敵《かな》わないわね」
「押しつめる気じゃないけれども、解らないから、ついそうなるのよ」

        七十二

 だんだん勾配《こうばい》の急になって来た会話は、いつの間《ま》にか継子の結婚問題に滑《すべ》り込んで行った。なるべくそれを避けたかったお延には、今までの行きがかり上、またそれを避ける事のできない義理があった。経験に乏しい処女の期待するような予言はともかくも、男女《なんにょ》関係に一日《いちじつ》の長ある年上の女として、相当の注意を与えてやりたい親切もないではなかった。彼女は差し障《さわ》りのない際《きわ》どい筋の上を婉曲《えんきょく》に渡って歩いた。
「そりゃ駄目《だめ》よ。津田の時は自分の事だから、自分によく解ったんだけれども、他《ひと》の事になるとまるで勝手が違って、ちっとも解らなくなるのよ」
「そんなに遠慮しないだってよかないの」
「遠慮じゃないのよ」
「じゃ冷淡なの」
 お延は答える前にしばらく間《ま》をおいた。
「継子さん、あなた知ってて。女の眼は自分に一番縁故の近いものに出会った時、始めてよく働らく事ができるのだという事を。眼が一秒で十年以上の手柄《てがら》をするのは、その時に限るのよ。しかもそんな場合は誰だって生涯《しょうがい》にそうたんとありゃしないわ。ことによると生涯に一返《いっぺん》も来ないですんでしまうかも分らないわ。だからあたしなんかの眼はまあ盲目《めくら》同然よ。少なくとも平生は」
「だって延子さんはそういう明るい眼をちゃんと持っていらっしゃるんじゃないの。そんならなぜそれを
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