いにお延が負けた時には零《こぼ》れた水がもう机掛と畳の目の中へ綺麗《きれい》に吸い込まれていた。彼女は落ちつき払って袂《たもと》から出した手巾《ハンケチ》で、濡《ぬ》れた所を上から抑《おさ》えつけた。
「雑巾なんか要《い》りゃしない。こうしておけば、それでたくさんよ。水はもう引いちまったんだから」
彼女は転がった花瓶《はないけ》を元の位置に直して、摧《くだ》けかかった花を鄭寧《ていねい》にその中へ挿《さ》し込んだ。そうして今までの頓興《とんきょう》をまるで忘れた人のように澄まし返った。それがまたたまらなくおかしいと見えて、継子はいつまでも一人で笑っていた。
発作《ほっさ》が静まった時、継子は帯の間に隠した帙入《ちついり》の神籤《みくじ》を取り出して、傍《そば》にある本箱の抽斗《ひきだし》へしまい易《か》えた。しかもその上からぴちんと錠《じょう》を下《おろ》して、わざとお延の方を見た。
けれども継子にとっていつまでも続く事のできるらしいこの無意味な遊技的感興は、そう長くお延を支配する訳に行かなかった。ひとしきり我を忘れた彼女は、従妹《いとこ》より早く醒《さ》めてしまった。
「継子さんはいつでも気楽で好いわね」
彼女はこう云って継子を見返した。当《あた》り障《さわ》りのない彼女の言葉はとても継子に通じなかった。
「じゃ延子さんは気楽でないの」
自分だって気楽な癖にと云わんばかりの語気のうちには、誰からでも、世間見ずの御嬢さん扱いにされる兼《かね》ての不平も交っていた。
「あなたとあたしといったいどこが違うんでしょう」
二人は年齢《とし》が違った。性質も違った。しかし気兼苦労という点にかけて二人のどこにどんな違があるか、それは継子のまだ考えた事のない問題であった。
「じゃ延子さんどんな心配があるの。少し話してちょうだいな」
「心配なんかないわ」
「そら御覧なさい。あなただってやっぱり気楽じゃないの」
「そりゃ気楽は気楽よ。だけどあなたの気楽さとは少し訳が違うのよ」
「どうしてでしょう」
お延は説明する訳に行かなかった。また説明する気になれなかった。
「今に解るわ」
「だけど延子さんとあたしとは三つ違よ、たった」
継子は結婚前と結婚後の差違をまるで勘定《かんじょう》に入れていなかった。
「ただ年齢ばかりじゃないのよ。境遇の変化よ。娘が人の奥さんになるとか、奥
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