、あすこへ行くんだが……」
お延は夫の顔を見つめた。
「もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」
「書いてやれない事もないが、また何とかかとか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃなかなか埒《らち》は開《あ》かないよ」
「でもほかに当《あて》がなければ仕方なかないの」
「だから書かないとは云わない。こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」
「そうね」
その時津田は真《ま》ともにお延の方を見た。そうして思い切ったような口調で云った。
「どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」
八
「厭《いや》よ、あたし」
お延はすぐ断った。彼女の言葉には何の淀《よど》みもなかった。遠慮と斟酌《しんしゃく》を通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。彼は相当の速力で走っている自動車を、突然|停《と》められた時のような衝撃《ショック》を受けた。彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、まず驚ろいた。そうして細君の顔を眺めた。
「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」
お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。
「そうかい。それじゃ強《し》いて頼まないでもいい。しかし……」
津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、掬《すく》って追《お》い退《の》けるように遮《さえぎ》った。
「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計《くらし》に困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、きっと変な顔をされるにきまっているわ」
お延が一概に津田の依頼を斥《しりぞ》けたのは、夫に同情がないというよりも、むしろ岡本に対する見栄《みえ》に制せられたのだという事がようやく津田の腑《ふ》に落ちた。彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。
「そんなに楽な身分のように吹聴《ふいちょう》しちゃ困るよ。買い被《かぶ》られるのもいいが、時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね」
「あたし吹聴した覚《おぼえ》なんかないわ。ただ向うでそうきめているだけよ」
津田は追窮《ついきゅう》もしなか
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