らない叔父の様子を見ると、そこに昔《むか》しの自由を憶《おも》い出させる或物があった。彼女は生豆腐《なまどうふ》を前に、胡坐《あぐら》を掻《か》いている剽軽《ひょうきん》な彼の顔を、過去の記念のように懐《なつ》かし気に眺めた。
「だってあたしの悪口は叔父さんのお仕込《しこみ》じゃないの。津田に教わった覚《おぼえ》なんか、ありゃしないわ」
「ふん、そうでもあるめえ」
わざと江戸っ子を使った叔父は、そういう種類の言葉を、いっさい家庭に入れてはならないもののごとくに忌《い》み嫌《きら》う叔母の方を見た。傍《はた》から注意するとなお面白がって使いたがる癖をよく知っているので、叔母は素知《そし》らぬ顔をして取り合わなかった。すると目標《あて》が外《はず》れた人のように叔父はまたお延に向った。
「いったい由雄さんはそんなに厳格な人かね」
お延は返事をしずに、ただにやにやしていた。
「ははあ、笑ってるところを見ると、やっぱり嬉しいんだな」
「何がよ」
「何がよって、そんなに白《しら》ばっくれなくっても、分っていらあな。――だが本当に由雄さんはそんなに厳格な人かい」
「どうだかあたしよく解らないわ。なぜまたそんな事を真面目《まじめ》くさってお訊《き》きになるの」
「少しこっちにも料簡《りょうけん》があるんだ、返答次第では」
「おお怖《こわ》い事。じゃ云っちまうわ。由雄は御察しの通り厳格な人よ。それがどうしたの」
「本当にかい」
「ええ。ずいぶん叔父さんも苦呶《くど》いのね」
「じゃこっちでも簡潔に結論を云っちまう。はたして由雄さんが、お前のいう通り厳格な人ならばだ。とうてい悪口の達者なお前には向かないね」
こう云いながら叔父は、そこに黙って坐っている叔母の方を、頷《あご》でしゃくって見せた。
「この叔母さんなら、ちょうどお誂《あつ》らえ向《むき》かも知れないがね」
淋しい心持が遠くから来た風のように、不意にお延の胸を撫《な》でた。彼女は急に悲しい気分に囚《とら》えられた自分を見て驚ろいた。
「叔父さんはいつでも気楽そうで結構ね」
津田と自分とを、好過ぎるほど仲の好い夫婦と仮定してかかった、調戯半分《からかいはんぶん》の叔父の笑談《じょうだん》を、ただ座興から来た出鱈目《でたらめ》として笑ってしまうには、お延の心にあまり隙《すき》があり過ぎた。と云って、その隙を飽《あ》くま
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