君は相変らず旨《うま》そうに食うね。――奥さんこの岡本君が今よりもっと食って、もっと肥ってた時分、西洋人の肩車《かたぐるま》へ乗った話をお聞きですか」
 叔母は知らなかった。吉川はまた同じ問を継子にかけた。継子も知らなかった。
「そうでしょうね、あんまり外聞《がいぶん》の好い話じゃないから、きっと隠しているんですよ」
「何が?」
 叔父はようやく皿から眼を上げて、不思議そうに相手を見た。すると吉川の夫人が傍《そば》から口を出した。
「おおかた重過ぎてその外国人を潰《つぶ》したんでしょう」
「そんならまだ自慢になるが、みんなに変な顔をしてじろじろ見られながら、倫敦《ロンドン》の群衆の中で、大男の肩の上へ噛《かじ》りついていたんだ。行列を見るためにね」
 叔父《おじ》はまだ笑いもしなかった。
「何を捏造《ねつぞう》する事やら。いったいそりゃいつの話だね」
「エドワード七世の戴冠式《たいかんしき》の時さ。行列を見ようとしてマンションハウスの前に立ってたところが、日本と違って向うのものがあんまり君より背丈《せい》が高過ぎるもんだから、苦し紛《まぎ》れにいっしょに行った下宿の亭主に頼んで、肩車に乗せて貰ったって云うじゃないか」
「馬鹿を云っちゃいけない。そりゃ人違だ。肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが、僕じゃない、あの猿だ」
 叔父の弁解はむしろ真面目《まじめ》であった。その真面目な口から猿という言葉が突然出た時、みんなは一度に笑った。
「なるほどあの猿ならよく似合うね。いくら英吉利人《イギリスじん》が大きいたって、どうも君じゃ辻褄《つじつま》が合わな過ぎると思ったよ。――あの猿と来たらまたずいぶん矮小《わいしょう》だからな」
 知っていながらわざと間違えたふりをして見せたのか、あるいは最初から事実を知らなかったのか、とにかく吉川はやっと腑《ふ》に落ちたらしい言葉遣《ことばづか》いをして、なおその当人の猿という渾名《あざな》を、一座を賑《にぎ》わせる滑稽《こっけい》の余音《よいん》のごとく繰《く》り返《かえ》した。夫人は半《なか》ば好奇的で、半ば戒飭的《かいちょくてき》な態度を取った。
「猿だなんて、いったい誰の事をおっしゃるの」
「なにお前の知らない人だ」
「奥さん心配なさらないでも好ござんす。たとい猿がこの席にいようとも、我々は表裏《ひょうり》なく彼を猿々と呼び得る人間な
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