伴なって来はしまいかという危険の感じが、お延の胸のどこかでした。
「こっちの気のせいかしらん」
お延がこう考えていると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。
「延子さんが呆《あき》れていらっしゃる。あたしがあんまりしゃべるもんだから」
お延は不意を打たれて退避《たじ》ろいだ。津田の前でかつて挨拶《あいさつ》に困った事のない彼女の智恵が、どう働いて好いか分らなくなった。ただ空疎な薄笑が瞬間の虚《きょ》を充《み》たした。しかしそれは御役目にもならない偽りの愛嬌《あいきょう》に過ぎなかった。
「いいえ、大変面白く伺《うかが》っております」と後《あと》から付け足した時は、お延自分でももう時機の後《おく》れている事に気がついていた。またやり損《そく》なったという苦《にが》い感じが彼女の口の先まで湧《わ》いて出た。今日こそ夫人の機嫌《きげん》を取り返してやろうという気込《きごみ》が一度に萎《な》えた。夫人は残酷に見えるほど早く調子を易《か》えて、すぐ岡本に向った。
「岡本さんあなたが外国から帰っていらしってから、もうよっぽどになりますね」
「ええ。何しろ一昔前《ひとむかしまえ》の事ですからな」
「一昔前って何年頃なの、いったい」
「さよう西暦《せいれき》……」
自然だか偶然だか叔父はもったいぶった考え方をした。
「普仏戦争《ふふつせんそう》時分?」
「馬鹿にしちゃいけません。これでもあなたの旦那様《だんなさま》を案内して倫敦《ロンドン》を連れて歩いて上げた覚《おぼえ》があるんだから」
「じゃ巴理《パリ》で籠城《ろうじょう》した組じゃないのね」
「冗談じゃない」
三好の洋行談をひとしきりで切り上げた夫人は、すぐ話頭を、それと関係の深い他の方面へ持って行った。自然吉川は岡本の相手にならなければすまなくなった。
「何しろ自動車のできたてで、あれが通ると、みんなふり返って見た時分だったからね」
「うん、あの鈍臭《のろくさ》いバスがまだ幅を利《き》かしていた時代だよ」
その鈍臭いバスが、そういう交通機関を自分で利用した記憶のないほかの者にとって、何の思い出にならなかったにも関わらず、当時を回顧する二人の胸には、やっぱり淡い一種の感慨を惹《ひ》き起すらしく見えた。継子と三好を見較《みくら》べた岡本は、苦笑しながら吉川に云った。
「お互に年を取ったもんだね。不断はちっとも気がつ
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