は夫人の方を向いて静かに云った。
「ええ何でも致しましょう」
「ええ何でもなさい。黙ってちゃいけません」
命令的なこの言葉がみんなを笑わせた。
「また独逸《ドイツ》を逃げ出した話でもするがいい」
吉川はすぐ細君の命令を具体的にした。
「独逸を逃げ出した話も、何度となく繰《く》り返《かえ》すんでね、近頃はもう他《ひと》よりも自分の方が陳腐《ちんぷ》になってしまいました」
「あなたのような落ちついた方《かた》でも、少しは周章《あわて》たでしょうね」
「少しどころなら好いですが、ほとんど夢中でしたろう。自分じゃよく分らないけれども」
「でも殺されるとは思わなかったでしょう」
「さよう」
三好が少し考えていると、吉川はすぐ隣りから口を出した。
「まさか殺されるとも思うまいね。ことにこの人は」
「なぜです。人間がずうずうしいからですか」
「という訳でもないが、とにかく非常に命を惜しがる男だから」
継子が下を向いたままくすくす笑った。戦争前後に独逸を引き上げて来た人だという事だけがお延に解った。
五十三
三好を中心にした洋行談がひとしきり弾《はず》んだ。相間《あいま》相間に巧みなきっかけを入れて話の後を釣り出して行く吉川夫人のお手際《てぎわ》を、黙って観察していたお延は、夫人がどんな努力で、彼ら四人の前に、この未知の青年紳士を押し出そうと試みつつあるかを見抜いた。穏和《おだやか》というよりもむしろ無口な彼は、自分でそうと気がつかないうちに、彼に好意をもった夫人の口車《くちぐるま》に乗せられて、最も有利な方面から自分をみんなの前に説明していた。
彼女はこの談話の進行中、ほとんど一言《ひとこと》も口を挟《さしは》さむ余地を与えられなかった。自然の勢い沈黙の謹聴者たるべき地位に立った彼女には批判の力ばかり多く働らいた。卒直と無遠慮の分子を多量に含んだ夫人の技巧が、毫《ごう》も技巧の臭味《くさみ》なしに、着々成功して行く段取《だんどり》を、一歩ごとに眺めた彼女は、自分の天性と夫人のそれとの間に非常の距離がある事を認めない訳に行かなかった。しかしそれは上下の距離でなくって、平面の距離だという気がした。では恐るるに足りないかというとけっしてそうでなかった。一部分は得意な現在の地位からも出て来るらしい命令的の態度のほかに、夫人の技巧には時として恐るべき破壊力が
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