です。幸か不幸か始めから私には今あなたのもっているような天然そのままの器《うつわ》が完全に具わっておりませんでしたから、それほどの損失もないのだと云えば、云われないこともないでしょうが、あなたは私と違います。あなたは父母《ふぼ》の膝下《しっか》を離れると共に、すぐ天真の姿を傷《きずつ》けられます。あなたは私よりも可哀相《かわいそう》です」
 二人の歩き方は遅かった。先に行った岡本夫婦が人に遮《さえ》ぎられて見えなくなった時、叔母はわざわざ取って返した。
「早くおいでなね。何をぐずぐずしているの。もう吉川さんの方じゃ先へ来て待っていらっしゃるんだよ」
 叔母の眼は継子の方にばかり注がれていた。言葉もとくに彼女に向ってかけられた。けれども吉川という名前を聞いたお延の耳には、それが今までの気分を一度に吹き散らす風のように響いた。彼女は自分のあまり好いていない、また向うでも自分をあまり好いていないらしい、吉川夫人の事をすぐ思い出した。彼女は自分の夫が、平生から一方《ひとかた》ならぬ恩顧《おんこ》を受けている勢力家の妻君として、今その人の前に、能《あた》う限《かぎ》りの愛嬌《あいきょう》と礼儀とを示さなければならなかった。平静のうちに一種の緊張を包んで彼女は、知らん顔をして、みんなの後《あと》に随《つ》いて食堂に入った。

        五十二

 叔母の云った通り、吉川夫婦は自分達より一足早く約束の場所へ来たものと見えて、お延の目標《まと》にするその夫人は、入口の方を向いて叔父と立談《たちばなし》をしていた。大きな叔父の後姿よりも、向う側に食《は》み出している大々《だいだい》した夫人のかっぷくが、まずお延の眼に入った。それと同時に、肉づきの豊かな頬に笑いを漲《みなぎ》らしていた夫人の方でも、すぐ眸《ひとみ》をお延の上に移した。しかし咄嗟《とっさ》の電火作用は起ると共に消えたので、二人は正式に挨拶《あいさつ》を取《と》り換《かわ》すまで、ついに互を認め合わなかった。
 夫人に投げかけた一瞥《いちべつ》についで、お延はまたその傍《そば》に立っている若い紳士を見ない訳に行かなかった。それが間違もなく、先刻《さっき》廊下で継子といっしょになって、冗談《じょうだん》半分夫人の双眼鏡をはしたなく批評し合った時に、自分達を驚ろかした無言の男なので、彼女は思わずひやりとした。
 簡単な挨
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