わざと短かい返事を小さな声で与えないとも限らなかった。
鋭い一瞥《いちべつ》の注意を彼らの上に払って行きがちな、廊下で出逢《であ》う多数の人々は、みんなお延よりも継子の方に余分の視線を向けた。忽然《こつぜん》お延の頭に彼女と自分との比較が閃《ひら》めいた。姿恰好《すがたかっこう》は継子に立《た》ち優《まさ》っていても、服装《なり》や顔形《かおかたち》で是非ひけを取らなければならなかった彼女は、いつまでも子供らしく羞恥《はにか》んでいるような、またどこまでも気苦労のなさそうに初々《ういうい》しく出来上った、処女としては水の滴《した》たるばかりの、この従妹《いとこ》を軽い嫉妬《しっと》の眼で視《み》た。そこにはたとい気の毒だという侮蔑《ぶべつ》の意《こころ》が全く打ち消されていないにしたところで、ちょっと彼我《ひが》の地位を易《か》えて立って見たいぐらいな羨望《せんぼう》の念が、著《いちじ》るしく働らいていた。お延は考えた。
「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」
幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事ができなかった。平生継子を標準《めやす》におかないで、何とも思わずに暮していた彼女は、今その従妹と肩を並べながら、賑《にぎ》やかな電灯で明るく照らされた廊下の上に立って、またかつて感じた事のない一種の哀愁《あいしゅう》に打たれた。それは軽いものであった。しかし涙に変化しやすい性質《たち》のものであった。そうして今|嫉妬《しっと》の眼で眺めたばかりの相手の手を、固く握り締《し》めたくなるような種類のものであった。彼女は心の中で継子に云った。
「あなたは私より純潔です。私が羨《うら》やましがるほど純潔です。けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、何の役にも立たない武器に過ぎません。私のように手落なく仕向けてすら夫は、けっしてこっちの思う通りに感謝してくれるものではありません。あなたは今に夫の愛を繋《つな》ぐために、その貴《たっと》い純潔な生地《きじ》を失わなければならないのです。それだけの犠牲を払って夫のために尽してすら、夫はことによるとあなたに辛《つら》くあたるかも知れません。私はあなたが羨《うらや》ましいと同時に、あなたがお気の毒です。近いうちに破壊しなければならない貴い宝物を、あなたはそれと心づかずに、無邪気にもっているから
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