がら人間の用をなさないと自白するくらいの屈辱として、お延の自尊心を傷《きずつ》けたのである。時と場合が、こういう立ち入った談話を許さない劇場でないにしたところで、お延は黙っているよりほかに仕方がなかった。意味ありげに叔母の顔を見た彼女は、すぐ眼を外《そら》せた。
舞台一面に垂れている幕がふわふわ動いて、継目《つぎめ》の少し切れた間から誰かが見物の方を覗《のぞ》いた。気のせいかそれがお延の方を見ているようなので、彼女は今向け換えたばかりの眼をまたよそに移した。下は席を出る人、座へ戻る人、途中を歩く人で、一度にざわつき始めていた。坐《すわ》ったぎりの大多数も、前後左右に思い思いの姿勢を取ったり崩《くず》したりして、片時も休まなかった。無数の黒い頭が渦《うず》のように見えた。彼らの或者の派出《はで》な扮装《つくり》が、色彩の運動から来る落ちつかない快感を、乱雑にちらちらさせた。
土間《どま》から眼を放したお延は、ついに谷を隔《へだ》てた向う側を吟味《ぎんみ》し始めた。するとちょうどその時|後《うしろ》をふり向いた百合子が不意に云った。
「あすこに吉川さんの奥さんが来ていてよ。見えたでしょう」
お延は少し驚ろかされた眼を、教わった通りの見当《けんとう》へつけて、そこに容易《たやす》く吉川夫人らしい人の姿を発見した。
「百合子さん、眼が早いのね、いつ見つけたの」
「見つけやしないのよ。先刻《さっき》から知ってるのよ」
「叔母さんや継子さんも知ってるの」
「ええ皆《みん》な知ってるのよ」
知らないのは自分だけだったのにようやく気のついたお延が、なおその方を百合子の影から見守っていると、故意だか偶然だか、いきなり吉川夫人の手にあった双眼鏡が、お延の席に向けられた。
「あたし厭《いや》だわ。あんなにして見られちゃ」
お延は隠れるように身を縮《ちぢ》めた。それでも向側《むこうがわ》の双眼鏡は、なかなかお延の見当から離れなかった。
「そんならいいわ。逃げ出しちまうだけだから」
お延はすぐ継子の後《あと》を追《おっ》かけて廊下へ出た。
四十八
そこから見渡した外部《そと》の光景も場所柄《ばしょがら》だけに賑《にぎ》わっていた。裏へ貫《ぬき》を打って取《と》り除《はず》しのできるように拵《こし》らえた透《すか》しの板敷を、絶間なく知らない人が往ったり来たり
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