の鳴るまでついに一言《ひとこと》も口を利《き》かなかった。
四十六
「よく来られたのね。ことによると今日はむずかしいんじゃないかって、先刻《さっき》継《つぎ》と話してたの」
幕が引かれてから、始めてうち寛《くつ》ろいだ様子を示した細君は、ようやくお延に口を利き出した。
「そら御覧なさい、あたしの云った通りじゃなくって」
誇り顔に母の方を見てこう云った継子はすぐお延に向ってその後《あと》を云い足した。
「あたしお母さまと賭《かけ》をしたのよ。今日あなたが来るか来ないかって。お母さまはことによると来ないだろうっておっしゃるから、あたしきっといらっしゃるに違ないって受け合ったの」
「そう。また御神籤《おみくじ》を引いて」
継子は長さ二寸五分幅六分ぐらいの小さな神籤箱の所有者であった。黒塗の上へ篆書《てんしょ》の金文字で神籤と書いたその箱の中には、象牙《ぞうげ》を平たく削《けず》った精巧の番号札が数通《かずどお》り百本納められていた。彼女はよく「ちょっと見て上げましょうか」と云いながら、小楊枝入《こようじいれ》を取り扱うような手つきで、短冊形《たんざくがた》の薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合うようにできた文句入《もんくいり》の折手本《おりでほん》を繰《く》りひろげて見た。そうしてそこに書いてある蠅《はえ》の頭ほどな細かい字を読むために、これも附属品として始めから添えてある小さな虫眼鏡を、羽二重《はぶたえ》の裏をつけた更紗《さらさ》の袋から取り出して、もったいらしくその上へ翳《かざ》したりした。お延が津田と浅草へ遊びに行った時、玩具《おもちゃ》としては高過ぎる四円近くの代価を払って、仲見世から買って帰った精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子にとって、処女の空想に神秘の色を遊戯的《ゆうぎてき》に着けてくれる無邪気な装飾品であった。彼女は時として帙《ちつ》入のままそれを机の上から取って帯の間に挟《はさ》んで外出する事さえあった。
「今日も持って来たの?」
お延は調戯半分《からかいはんぶん》彼女に訊《き》いて見たくなった。彼女は苦笑しながら首を振った。母が傍《そば》から彼女に代って返事をするごとくに云った。
「今日の予言はお神籤《みくじ》じゃないのよ。お神籤よりもっと偉《えら》い予言なの」
「そう」
お延は後が聞きたそうにして、母子《おや
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