でとまった時、車上のお延は帯の間から一尺ばかりの鉄製の鎖《くさり》を出して長くぶら下げて見せた。その鎖の端《はじ》には環《わ》があって、環の中には大小五六個の鍵《かぎ》が通してあるので、鎖を高く示そうとしたお延の所作《しょさ》と共に、じゃらじゃらという音が津田の耳に響いた。
「これ忘れたの。箪笥《たんす》の上に置きっ放しにしたまま」
 夫婦以外に下女しかいない彼らの家庭では、二人|揃《そろ》って外出する時の用心に、大事なものに錠《じょう》を卸《おろ》しておいて、どっちかが鍵だけ持って出る必要があった。
「お前預かっておいで」
 じゃらじゃらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、平手《ひらて》でぽんとその上を敲《たた》きながら、津田を見て微笑した。
「大丈夫」
 俥は再び走《か》け出した。
 彼らの医者に着いたのは予定の時刻より少し後《おく》れていた。しかし午《ひる》までの診察時間に間に合わないほどでもなかった。夫婦して控室に並んで坐るのが苦になるので、津田は玄関を上ると、すぐ薬局の口へ行った。
「すぐ二階へ行ってもいいでしょうね」
 薬局にいた書生は奥から見習いの看護婦を呼んでくれた。まだ十六七にしかならないその看護婦は、何の造作《ぞうさ》もなく笑いながら津田にお辞儀《じぎ》をしたが、傍に立っているお延の姿を見ると、少し物々しさに打たれた気味で、いったいこの孔雀《くじゃく》はどこから入って来たのだろうという顔つきをした。お延が先《せん》を越して、「御厄介《ごやっかい》になります」とこっちから挨拶《あいさつ》をしたので、始めて気がついたように、看護婦も頭を下げた。
「君、こいつを一つ持ってくれたまえ」
 津田は車夫から受取った鞄《かばん》を看護婦に渡して、二階の上《あが》り口《くち》の方へ廻った。
「お延こっちだ」
 控室の入口に立って、患者のいる部屋の中を覗《のぞ》き込んでいたお延は、すぐ津田の後《あと》に随《つ》いて階子段《はしごだん》を上《あが》った。
「大変陰気な室《へや》ね、あすこは」
 南東《みなみひがし》の開《あ》いた二階は幸《さいわい》に明るかった。障子《しょうじ》を開けて縁側《えんがわ》へ出た彼女は、つい鼻の先にある西洋洗濯屋の物干《ものほし》を見ながら、津田を顧《かえり》みた。
「下と違ってここは陽気ね。そうしてちょっといいお部屋ね。畳は汚《よご
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