《ひらぐけ》の寝巻紐《ねまきひも》が這入《はい》っているだけであったが、鞄《かばん》の中からは、楊枝だの歯磨粉《はみがき》だの、使いつけたラヴェンダー色の書翰用紙《しょかんようし》だの、同じ色の封筒だの、万年筆だの、小さい鋏《はさみ》だの、毛抜だのが雑然と現われた。そのうちで一番重くて嵩張《かさば》った大きな洋書を取り出した時、彼はお延に云った。
「これは置いて行くよ」
「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、枝折《しおり》が挟《はさ》んであるから、お読みになるのかと思って入れといたのよ」
 津田君は何にも云わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学の独逸書《ドイツしょ》を重そうに畳の上に置いた。
「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」
 こう云った津田は、それがこの大部《たいぶ》の書物を残して行く正当の理由であると知りながら、あまり好い心持がしなかった。
「そう、本はどれが要《い》るんだか妾分らないから、あなた自分でお好きなのを択《よ》ってちょうだい」
 津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へ詰《つ》め込んだ。

        四十

 天気が好いので幌《ほろ》を畳《たた》ました二人は、鞄《かばん》と風呂敷包を、各自《めいめい》の俥《くるま》の上に一つずつ乗せて家を出た。小路《こうじ》の角を曲って電車通りを一二丁行くと、お延の車夫が突然津田の車夫に声をかけた。俥は前後ともすぐとまった。
「大変。忘れものがあるの」
 車上でふり返った津田は、何にも云わずに細君の顔を見守った。念入《ねんいり》に身仕舞《みじまい》をした若い女の口から出る刺戟性《しげきせい》に富んだ言葉のために引きつけられたものは夫ばかりではなかった。車夫も梶棒《かじぼう》を握ったまま、等しくお延《のぶ》の方へ好奇の視線を向けた。傍《そば》を通る往来の人さえ一瞥《いちべつ》の注意を夫婦の上へ与えないではいられなかった。
「何だい。何を忘れたんだい」
 お延は思案するらしい様子をした。
「ちょっと待っててちょうだい。すぐだから」
 彼女は自分の俥だけを元へ返した。中《ちゅう》ぶらりんの心的状態でそこに取り残された津田は、黙ってその後姿を見送った。いったん小路の中に隠れた俥がやがてまた現われると、劇《はげ》しい速力でまた彼の待っている所まで馳《か》けて来た。それが彼の眼の前
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