た涙の痕《あと》を、ただ迷惑そうに眺めた。
 探偵《たんてい》として物色《ぶっしょく》された男は、懐《ふところ》からまた薄い手帳を出して、その中へ鉛筆で何かしきりに書きつけ始めた。猫のように物静かでありながら、猫のようにすべてを注意しているらしい彼の挙動が、津田を変な気持にした。けれども小林の酔は、もうそんなところを通り越していた。探偵などはまるで眼中になかった。彼は新調の背広《せびろ》の腕をいきなり津田の鼻の先へ持って来た。
「君は僕が汚ない服装《なり》をすると、汚ないと云って軽蔑《けいべつ》するだろう。またたまに綺麗《きれい》な着物を着ると、今度は綺麗だと云って軽蔑するだろう。じゃ僕はどうすればいいんだ。どうすれば君から尊敬されるんだ。後生《ごしょう》だから教えてくれ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」
 津田は苦笑しながら彼の腕を突き返した。不思議にもその腕には抵抗力がなかった。最初の勢が急にどこかへ抜けたように、おとなしく元の方角へ戻って行った。けれども彼の口は彼の腕ほど素直ではなかった。手を引込ました彼はすぐ口を開いた。
「僕は君の腹の中をちゃんと知ってる。君は僕がこれほど下層社会に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい洋服なんか拵《こしら》えたので、それを矛盾だと云って笑う気だろう」
「いくら貧乏だって、洋服の一着ぐらい拵えるのは当り前だよ。拵えなけりゃ赤裸《はだか》で往来を歩かなければなるまい。拵えたって結構じゃないか。誰も何とも思ってやしないよ」
「ところがそうでない。君は僕をただめかすんだと思ってる。お洒落《しゃれ》だと解釈している。それが悪い」
「そうか。そりゃ悪かった」
 もうやりきれないと観念した津田は、とうとう降参の便利を悟ったので、好い加減に調子を合せ出した。すると小林の調子も自然と変って来た。
「いや僕も悪い。悪かった。僕にも洒落気《しゃれけ》はあるよ。そりゃ僕も充分認める。認めるには認めるが、僕がなぜ今度この洋服を作ったか、その訳を君は知るまい」
 そんな特別の理由を津田は固《もと》より知ろうはずがなかった。また知りたくもなかった。けれども行きがかり上|訊《き》いてやらない訳にも行かなかった。両手を左右へひろげた小林は、自分で自分の服装《なり》を見廻しながら、むしろ心細そうに答えた。
「実はこの着物で近々《きんきん》都落《みやこ
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