さが、貧苦という塵埃《ほこり》で汚《よご》れているだけなんだ。つまり湯に入れないから穢《きた》ないんだ。馬鹿にするな」
 小林の語気は、貧民の弁護というよりもむしろ自家《じか》の弁護らしく聞こえた。しかしむやみに取り合ってこっちの体面を傷《きずつ》けられては困るという用心が頭に働くので、津田はわざと議論を避けていた。すると小林がなお追《おっ》かけて来た。
「君は黙ってるが僕のいう事を信じないね。たしかに信じない顔つきをしている。そんなら僕が説明してやろう。君は露西亜《ロシア》の小説を読んだろう」
 露西亜の小説を一冊も読んだ事のない津田はやはり何とも云わなかった。
「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。いかに人間が下賤《げせん》であろうとも、またいかに無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれるほどありがたい、そうして少しも取り繕《つくろ》わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってるはずだ。君はあれを虚偽と思うか」
「僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ」
「先生に訊《き》くと、先生はありゃ嘘《うそ》だと云うんだ。あんな高尚な情操をわざと下劣な器《うつわ》に盛って、感傷的に読者を刺戟《しげき》する策略に過ぎない、つまりドストエヴスキがあたったために、多くの模倣者が続出して、むやみに安っぽくしてしまった一種の芸術的技巧に過ぎないというんだ。しかし僕はそうは思わない。先生からそんな事を聞くと腹が立つ。先生にドストエヴスキは解らない。いくら年齢《とし》を取ったって、先生は書物の上で年齢を取っただけだ。いくら若かろうが僕は……」
 小林の言葉はだんだん逼《せま》って来た。しまいに彼は感慨に堪《た》えんという顔をして、涙をぽたぽた卓布《テーブルクロース》の上に落した。

        三十六

 不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれるほどの酔が廻っていなかった。同化の埒外《らちがい》からこの興奮状態を眺める彼の眼はついに批判的であった。彼は小林を泣かせるものが酒であるか、叔父であるかを疑った。ドストエヴスキであるか、日本の下層社会であるかを疑った。そのどっちにしたところで、自分とあまり交渉のない事もよく心得ていた。彼はつまらなかった。また不安であった。感激家によって彼の前にふり落され
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