ぶ》ったまま、彼は一応ぐるりと四方《あたり》を見廻した後《あと》で、懐《ふところ》へ手を入れた。そうしてそこから取り出した薄い小型の帳面を開けて、読むのだか考えるのだか、じっと見つめていた。彼はいつまで経《た》っても、古ぼけたトンビを脱ごうとしなかった。帽子も頭へ載せたままであった。しかし帳面はそんなに長くひろげていなかった。大事そうにそれを懐へしまうと、今度は飲みながら、じろりじろりと他《ほか》の客を、見ないようにして見始めた。その相間《あいま》相間には、ちんちくりんな外套《がいとう》の羽根の下から手を出して、薄い鼻の下の髭《ひげ》を撫《な》でた。
 先刻《さっき》から気をつけるともなしにこの様子に気をつけていた二人は、自分達の視線が彼の視線に行き合った時、ぴたりと真向《まむき》になって互に顔を見合せた。小林は心持前へ乗り出した。
「何だか知ってるか」
 津田は元の通りの姿勢を崩《くず》さなかった。ほとんど返事に価《あたい》しないという口調で答えた。
「何だか知るもんか」
 小林はなお声を低くした。
「あいつは探偵《たんてい》だぜ」
 津田は答えなかった。相手より酒量の強い彼は、かえって相手ほど平生を失わなかった。黙って自分の前にある猪口《ちょく》を干した。小林はすぐそれへなみなみと注《つ》いだ。
「あの眼つきを見ろ」
 薄笑いをした津田はようやく口を開《ひら》いた。
「君見たいにむやみに上流社会の悪口をいうと、さっそく社会主義者と間違えられるぞ。少し用心しろ」
「社会主義者?」
 小林はわざと大きな声を出して、ことさらにインヴァネスの男の方を見た。
「笑わかせやがるな。こっちゃ、こう見えたって、善良なる細民の同情者だ。僕に比べると、乙に上品ぶって取り繕《つく》ろってる君達の方がよっぽどの悪者だ。どっちが警察へ引っ張られて然《しか》るべきだかよく考えて見ろ」
 鳥打の男が黙って下を向いているので、小林は津田に喰ってかかるよりほかに仕方がなかった。
「君はこうした土方や人足をてんから人間扱いにしないつもりかも知れないが」
 小林はまたこう云いかけて、そこいらを見廻したが、あいにくどこにも土方や人足はいなかった。それでも彼はいっこう構わずにしゃべりつづけた。
「彼らは君や探偵よりいくら人間らしい崇高な生地《きじ》をうぶのままもってるか解らないぜ。ただその人間らしい美し
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