、書生時代の外套を、そう大事そうにいつまで着ているものかね」
「そうか、それじゃちょうど好い。あれを僕にくれ」
「欲しければやっても好い」
 津田はむしろ冷やかに答えた。靴足袋《くつたび》まで新らしくしている男が、他《ひと》の着古した外套を貰いたがるのは少し矛盾であった。少くとも、その人の生活に横《よこた》わる、不規則な物質的の凸凹《たかびく》を証拠《しょうこ》立てていた。しばらくしてから、津田は小林に訊《き》いた。
「なぜその背広《せびろ》といっしょに外套も拵えなかったんだ」
「君と同《おん》なじように僕を考えちゃ困るよ」
「じゃどうしてその背広だの靴だのができたんだ」
「訊き方が少し手酷《てきび》し過ぎるね。なんぼ僕だってまだ泥棒はしないから安心してくれ」
 津田はすぐ口を閉じた。
 二人は大きな坂の上に出た。広い谷を隔《へだ》てて向《むこう》に見える小高い岡が、怪獣の背のように黒く長く横わっていた。秋の夜の灯火がところどころに点々と少量の暖かみを滴《したた》らした。
「おい、帰りにどこかで一杯やろうじゃないか」
 津田は返事をする前に、まず小林の様子を窺《うかが》った。彼らの右手には高い土手があって、その土手の上には蓊欝《こんもり》した竹藪《たけやぶ》が一面に生《お》い被《かぶ》さっていた。風がないので竹は鳴らなかったけれども、眠ったように見えるその笹《ささ》の葉の梢《こずえ》は、季節相応な蕭索《しょうさく》の感じを津田に与えるに充分であった。
「ここはいやに陰気な所だね。どこかの大名華族の裏に当るんで、いつまでもこうして放《ほう》ってあるんだろう。早く切り開いちまえばいいのに」
 津田はこういって当面の挨拶《あいさつ》をごまかそうとした。しかし小林の眼に竹藪なぞはまるで入らなかった。
「おい行こうじゃないか、久しぶりで」
「今飲んだばかりだのに、もう飲みたくなったのか」
「今飲んだばかりって、あれっぱかり飲んだんじゃ飲んだ部へ入らないからね」
「でも君はもう充分ですって断っていたじゃないか」
「先生や奥さんの前じゃ遠慮があって酔えないから、仕方なしにああ云ったんだね。まるっきり飲まないんならともかくも、あのくらい飲ませられるのはかえって毒だよ。後から適当の程度まで酔っておいて止《や》めないと身体《からだ》に障《さわ》るからね」
 自分に都合の好い理窟《りくつ
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