終《しじゅう》自分を抑えつけて、なるべく心の色を外へ出さないようにしていた。そこに彼の誇りがあると共に、そこに一種の不快も潜《ひそ》んでいたことは、彼の気分が彼に教える事実であった。
 半日以上の暇を潰《つぶ》したこの久しぶりの訪問を、単にこういう快不快の立場から眺めた津田は、すぐその対照として活溌《かっぱつ》な吉川夫人とその綺麗《きれい》な応接間とを記憶の舞台に躍《おど》らした。つづいて近頃ようやく丸髷《まるまげ》に結い出したお延《のぶ》の顔が眼の前に動いた。
 彼は座を立とうとして小林を顧《かえり》みた。
「君はまだいるかね」
「いや。僕ももう御暇《おいとま》しよう」
 小林はすぐ吸い残した敷島《しきしま》の袋を洋袴《ズボン》の隠袋《かくし》へねじ込んだ。すると彼らの立《た》ち際《ぎわ》に、叔父が偶然らしくまた口を開いた。
「お延はどうしたい。行こう行こうと思いながら、つい貧乏暇なしだもんだから、御無沙汰《ごぶさた》をしている。宜《よろ》しく云ってくれ。お前の留守にゃ閑《ひま》で困るだろうね、彼《あ》の女《おんな》も。いったい何をして暮してるかね」
「何って別にする事もないでしょうよ」
 こう散漫に答えた津田は、何と思ったか急に後《あと》からつけ足した。
「病院へいっしょに入りたいなんて気楽な事をいうかと思うと、やれ髪を刈れの湯に行けのって、叔母さんよりもよっぽどやかましい事を云いますよ」
「感心じゃないか。お前のようなお洒落《しゃれ》にそんな注意をしてくれるものはほかにありゃしないよ」
「ありがたい仕合せだな」
「芝居《しばや》はどうだい。近頃行くかい」
「ええ時々行きます。この間も岡本から誘われたんだけれども、あいにくこの病気の方の片をつけなけりゃならないんでね」
 津田はそこでちょっと叔母の方を見た。
「どうです、叔母さん、近い内帝劇へでも御案内しましょうか。たまにゃああいう所へ行って見るのも薬ですよ、気がはればれしてね」
「ええありがとう。だけど由雄さんの御案内じゃ――」
「お厭ですか」
「厭より、いつの事だか分らないからね」
 芝居場《しばいば》などを余り好まない叔母のこの返事を、わざと正面に受けた津田は頭を掻《か》いて見せた。
「そう信用がなくなった日にゃ僕もそれまでだ」
 叔母はふふんと笑った。
「芝居はどうでもいいが、由雄さん京都の方はどうして、
前へ 次へ
全373ページ中53ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング