ったいお前達は他《ひと》の娘を何だと思う」
「女だと思ってます」
 津田は交《ま》ぜ返《かえ》し半分わざと返事をした。
「そうだろう。ただ女だと思うだけで、娘とは思わないんだろう。それがおれ達とは大違いだて。おれ達は父母《ふぼ》から独立したただの女として他人の娘を眺めた事がいまだかつてない。だからどこのお嬢さんを拝見しても、そのお嬢さんには、父母という所有者がちゃんと食っついてるんだと始めから観念している。だからいくら惚《ほ》れたくっても惚れられなくなる義理じゃないか。なぜと云って御覧、惚れるとか愛し合うとかいうのは、つまり相手をこっちが所有してしまうという意味だろう。すでに所有権のついてるものに手を出すのは泥棒じゃないか。そういう訳で義理堅い昔の男はけっして惚れなかったね。もっとも女はたしかに惚れたよ。現にそこで松茸飯を食ってるお朝なぞも実はおれに惚れたのさ。しかしおれの方じゃかつて彼女《あれ》を愛した覚《おぼえ》がない」
「どうでもいいから、もう好い加減にして御飯になさい」
 真事を寝かしつけに行ったお金さんを呼び返した叔母は、彼女にいいつけて、みんなの茶碗に飯をよそわせた。津田は仕方なしに、ひとり下味《まず》い食麺麭《しょくパン》をにちゃにちゃ噛《か》んだ。

        三十二

 食後の話はもうはずまなかった。と云って、別にしんみりした方面へ落ちて行くでもなかった。人々の興味を共通に支配する題目の柱が折れた時のように、彼らはてんでんばらばらに口を聞いた後で、誰もそれを会話の中心に纏《まと》めようと努力するもののないのに気が付いた。
 餉台《ちゃぶだい》の上に両肱《りょうひじ》を突いた叔父が酔後《すいご》の欠《あくび》を続けざまに二つした。叔母が下女を呼んで残物《ざんぶつ》を勝手へ運ばした。先刻《さっき》から重苦しい空気の影響を少しずつ感じていた津田の胸に、今夜聞いた叔父の言葉が、月の面《おもて》を過ぎる浮雲のように、時々薄い陰を投げた。そのたびに他人から見ると、麦酒《ビール》の泡と共に消えてしまうべきはずの言葉を、津田はかえって意味ありげに自分で追いかけて見たり、また自分で追い戻して見たりした。そこに気のついた時、彼は我ながら不愉快になった。
 同時に彼は自分と叔母との間に取り換わされた言葉の投げ合も思い出さずにはいられなかった。その投げ合の間、彼は始
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