夢十夜
夏目漱石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)枕元に坐《すわ》っていると
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)右|堀田原《ほったはら》とある
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]
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第一夜
こんな夢を見た。
腕組をして枕元に坐《すわ》っていると、仰向《あおむき》に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭《りんかく》の柔《やわ》らかな瓜実《うりざね》顔《がお》をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇《くちびる》の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然《はっきり》云った。自分も確《たしか》にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗《のぞ》き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開《あ》けた。大きな潤《うるおい》のある眼で、長い睫《まつげ》に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸《ひとみ》の奥に、自分の姿が鮮《あざやか》に浮かんでいる。
自分は透《す》き徹《とお》るほど深く見えるこの黒眼の色沢《つや》を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍《そば》へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうに※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みはっ》たまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
じゃ、私《わたし》の顔が見えるかいと一心《いっしん》に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、埋《う》めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片《かけ》を墓標《はかじるし》に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢《あ》いに来ますから」
自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
自分は黙って首肯《うなず》いた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の傍《そば》に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
自分はただ待っていると答えた。すると、黒い眸《ひとみ》のなかに鮮《あざやか》に見えた自分の姿が、ぼうっと崩《くず》れて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫《まつげ》の間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。
自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑《なめら》かな縁《ふち》の鋭《する》どい貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿《しめ》った土の匂《におい》もした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
それから星の破片《かけ》の落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている間《ま》に、角《かど》が取れて滑《なめら》かになったんだろうと思った。抱《だ》き上《あ》げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。
自分は苔《こけ》の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石《はかいし》を眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定《かんじょう》した。
しばらくするとまた唐紅《からくれない》の天道《てんとう》がのそりと上《のぼ》って来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。
自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔《こけ》の生《は》えた丸い石を眺めて、自分は女に欺《だま》されたのではなかろうかと思い出した。
すると石の下から斜《はす》に自分の方へ向いて青い茎《くき》が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺《ゆら》ぐ茎《くき》の頂《いただき》に、心持首を傾《かたぶ》けていた細長い一輪の蕾《つぼみ》が、ふっくらと弁《はなびら》を開いた。真白な百合《ゆり》が鼻の先で骨に徹《こた》えるほど匂った。そこへ遥《はるか》の上から、ぽたりと露《つゆ》が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴《したた》る、白い花弁《はなびら》に接吻《せっぷん》した。自分が百合から顔を離す拍子《ひょうし》に思わず、遠い空を見たら、暁《あかつき》の星がたった一つ瞬《またた》いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
第二夜
こんな夢を見た。
和尚《おしょう》の室を退《さ》がって、廊下《ろうか》伝《づた》いに自分の部屋へ帰ると行灯《あんどう》がぼんやり点《とも》っている。片膝《かたひざ》を座蒲団《ざぶとん》の上に突いて、灯心を掻《か》き立てたとき、花のような丁子《ちょうじ》がぱたりと朱塗の台に落ちた。同時に部屋がぱっと明かるくなった。
襖《ふすま》の画《え》は蕪村《ぶそん》の筆である。黒い柳を濃く薄く、遠近《おちこち》とかいて、寒《さ》むそうな漁夫が笠《かさ》を傾《かたぶ》けて土手の上を通る。床《とこ》には海中文殊《かいちゅうもんじゅ》の軸《じく》が懸《かか》っている。焚《た》き残した線香が暗い方でいまだに臭《にお》っている。広い寺だから森閑《しんかん》として、人気《ひとけ》がない。黒い天井《てんじょう》に差す丸行灯《まるあんどう》の丸い影が、仰向《あおむ》く途端《とたん》に生きてるように見えた。
立膝《たてひざ》をしたまま、左の手で座蒲団《ざぶとん》を捲《めく》って、右を差し込んで見ると、思った所に、ちゃんとあった。あれば安心だから、蒲団をもとのごとく直《なお》して、その上にどっかり坐《すわ》った。
お前は侍《さむらい》である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚《おしょう》が云った。そういつまでも悟れぬところをもって見ると、御前は侍ではあるまいと言った。人間の屑《くず》じゃと言った。ははあ怒ったなと云って笑った。口惜《くや》しければ悟った証拠を持って来いと云ってぷいと向《むこう》をむいた。怪《け》しからん。
隣の広間の床に据《す》えてある置時計が次の刻《とき》を打つまでには、きっと悟って見せる。悟った上で、今夜また入室《にゅうしつ》する。そうして和尚の首と悟りと引替《ひきかえ》にしてやる。悟らなければ、和尚の命が取れない。どうしても悟らなければならない。自分は侍である。
もし悟れなければ自刃《じじん》する。侍が辱《はずか》しめられて、生きている訳には行かない。綺麗《きれい》に死んでしまう。
こう考えた時、自分の手はまた思わず布団《ふとん》の下へ這入《はい》った。そうして朱鞘《しゅざや》の短刀を引《ひ》き摺《ず》り出した。ぐっと束《つか》を握って、赤い鞘を向へ払ったら、冷たい刃《は》が一度に暗い部屋で光った。凄《すご》いものが手元から、すうすうと逃げて行くように思われる。そうして、ことごとく切先《きっさき》へ集まって、殺気《さっき》を一点に籠《こ》めている。自分はこの鋭い刃が、無念にも針の頭のように縮《ちぢ》められて、九寸《くすん》五分《ごぶ》の先へ来てやむをえず尖《とが》ってるのを見て、たちまちぐさりとやりたくなった。身体《からだ》の血が右の手首の方へ流れて来て、握っている束がにちゃにちゃする。唇《くちびる》が顫《ふる》えた。
短刀を鞘へ収めて右脇へ引きつけておいて、それから全伽《ぜんが》を組んだ。――趙州《じょうしゅう》曰く無《む》と。無とは何だ。糞坊主《くそぼうず》めとはがみをした。
奥歯を強く咬《か》み締《し》めたので、鼻から熱い息が荒く出る。こめかみが釣って痛い。眼は普通の倍も大きく開けてやった。
懸物《かけもの》が見える。行灯が見える。畳《たたみ》が見える。和尚の薬缶頭《やかんあたま》がありありと見える。鰐口《わにぐち》を開《あ》いて嘲笑《あざわら》った声まで聞える。怪《け》しからん坊主だ。どうしてもあの薬缶を首にしなくてはならん。悟ってやる。無だ、無だと舌の根で念じた。無だと云うのにやっぱり線香の香《におい》がした。何だ線香のくせに。
自分はいきなり拳骨《げんこつ》を固めて自分の頭をいやと云うほど擲《なぐ》った。そうして奥歯をぎりぎりと噛《か》んだ。両腋《りょうわき》から汗が出る。背中が棒のようになった。膝《ひざ》の接目《つぎめ》が急に痛くなった。膝が折れたってどうあるものかと思った。けれども痛い。苦しい。無《む》はなかなか出て来ない。出て来ると思うとすぐ痛くなる。腹が立つ。無念になる。非常に口惜《くや》しくなる。涙がほろほろ出る。ひと思《おもい》に身を巨巌《おおいわ》の上にぶつけて、骨も肉もめちゃめちゃに砕《くだ》いてしまいたくなる。
それでも我慢してじっと坐っていた。堪《た》えがたいほど切ないものを胸に盛《い》れて忍んでいた。その切ないものが身体《からだ》中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦《あせ》るけれども、どこも一面に塞《ふさ》がって、まるで出口がないような残刻極まる状態であった。
そのうちに頭が変になった。行灯《あんどう》も蕪村《ぶそん》の画《え》も、畳も、違棚《ちがいだな》も有って無いような、無くって有るように見えた。と云って無《む》はちっとも現前《げんぜん》しない。ただ好加減《いいかげん》に坐っていたようである。ところへ忽然《こつぜん》隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。
はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。時計が二つ目をチーンと打った。
第三夜
こんな夢を見た。
六つになる子供を負《おぶ》ってる。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつの間にか眼が潰《つぶ》れて、青坊主《あおぼうず》になっている。自分が御前の眼はいつ潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人《おとな》である。しかも対等《たいとう》だ。
左右は青田《あおた》である。路《みち》は細い。鷺《さぎ》の影が時々闇《やみ》に差す。
「田圃《たんぼ》へかかったね」と背中で云った。
「どうして解る」と顔を後《うし》ろへ振り向けるようにして聞いたら、
「だって鷺《さぎ》が鳴くじゃないか」と答えた。
すると鷺がはたして二声ほど鳴いた。
自分は我子ながら少し怖《こわ》くなった。こんなものを背負《しょ》っていては、この先どうなるか分らない。どこか打遣《うっち》ゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。あすこならばと考え出す途端《とたん》に、背中で、
「ふふん」と云う声がした。
「何を笑うんだ」
子供は返事をしなかった。ただ
「御父《おとっ》さん、重いかい」と聞いた。
「重かあない」と答えると
「今に重くなるよ」と云った。
自分は黙って森を目標《めじるし》にあるいて行った。田の中の路が不規則にうね
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