ってなかなか思うように出られない。しばらくすると二股《ふたまた》になった。自分は股《また》の根に立って、ちょっと休んだ。
「石が立ってるはずだがな」と小僧が云った。
なるほど八寸角の石が腰ほどの高さに立っている。表には左り日《ひ》ケ窪《くぼ》、右|堀田原《ほったはら》とある。闇《やみ》だのに赤い字が明《あきら》かに見えた。赤い字は井守《いもり》の腹のような色であった。
「左が好いだろう」と小僧が命令した。左を見るとさっきの森が闇の影を、高い空から自分らの頭の上へ抛《な》げかけていた。自分はちょっと躊躇《ちゅうちょ》した。
「遠慮しないでもいい」と小僧がまた云った。自分は仕方なしに森の方へ歩き出した。腹の中では、よく盲目《めくら》のくせに何でも知ってるなと考えながら一筋道を森へ近づいてくると、背中で、「どうも盲目は不自由でいけないね」と云った。
「だから負《おぶ》ってやるからいいじゃないか」
「負ぶって貰《もら》ってすまないが、どうも人に馬鹿にされていけない。親にまで馬鹿にされるからいけない」
何だか厭《いや》になった。早く森へ行って捨ててしまおうと思って急いだ。
「もう少し行くと解る。――ちょうどこんな晩だったな」と背中で独言《ひとりごと》のように云っている。
「何が」と際《きわ》どい声を出して聞いた。
「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲《あざ》けるように答えた。すると何だか知ってるような気がし出した。けれども判然《はっきり》とは分らない。ただこんな晩であったように思える。そうしてもう少し行けば分るように思える。分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。
雨はさっきから降っている。路はだんだん暗くなる。ほとんど夢中である。ただ背中に小さい小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩《も》らさない鏡のように光っている。しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分はたまらなくなった。
「ここだ、ここだ。ちょうどその杉の根の処だ」
雨の中で小僧の声は判然聞えた。自分は覚えず留った。いつしか森の中へ這入《はい》っていた。一間《いっけん》ばかり先にある黒いものはたしかに小僧の云う通り杉の木と見えた。
「御父《おとっ》さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化五年|辰年《たつどし》だろう」
なるほど文化五年辰年らしく思われた。
「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然《こつぜん》として頭の中に起った。おれは人殺《ひとごろし》であったんだなと始めて気がついた途端《とたん》に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。
第四夜
広い土間の真中に涼み台のようなものを据《す》えて、その周囲《まわり》に小さい床几《しょうぎ》が並べてある。台は黒光りに光っている。片隅《かたすみ》には四角な膳《ぜん》を前に置いて爺《じい》さんが一人で酒を飲んでいる。肴《さかな》は煮しめらしい。
爺さんは酒の加減でなかなか赤くなっている。その上顔中つやつやして皺《しわ》と云うほどのものはどこにも見当らない。ただ白い髯《ひげ》をありたけ生《は》やしているから年寄《としより》と云う事だけはわかる。自分は子供ながら、この爺さんの年はいくつなんだろうと思った。ところへ裏の筧《かけひ》から手桶《ておけ》に水を汲《く》んで来た神《かみ》さんが、前垂《まえだれ》で手を拭《ふ》きながら、
「御爺さんはいくつかね」と聞いた。爺さんは頬張《ほおば》った|煮〆《にしめ》を呑《の》み込んで、
「いくつか忘れたよ」と澄ましていた。神さんは拭いた手を、細い帯の間に挟《はさ》んで横から爺さんの顔を見て立っていた。爺さんは茶碗《ちゃわん》のような大きなもので酒をぐいと飲んで、そうして、ふうと長い息を白い髯の間から吹き出した。すると神さんが、
「御爺さんの家《うち》はどこかね」と聞いた。爺さんは長い息を途中で切って、
「臍《へそ》の奥だよ」と云った。神さんは手を細い帯の間に突込《つっこ》んだまま、
「どこへ行くかね」とまた聞いた。すると爺さんが、また茶碗のような大きなもので熱い酒をぐいと飲んで前のような息をふうと吹いて、
「あっちへ行くよ」と云った。
「真直《まっすぐ》かい」と神さんが聞いた時、ふうと吹いた息が、障子《しょうじ》を通り越して柳の下を抜けて、河原《かわら》の方へ真直《まっすぐ》に行った。
爺さんが表へ出た。自分も後《あと》から出た。爺さんの腰に小さい瓢箪《ひょうたん》がぶら下がっている。肩から四角な箱を腋《わき》の下へ釣るしている。浅黄《あさぎ》の股引《ももひき》を穿《は》いて、浅黄の袖無《そでな》しを着ている。足袋《たび》だけが黄色い。何だか皮で作った足袋のように見えた。
爺さんが真直に柳の下まで来た。柳の下に子供が三四人いた。爺さんは笑いながら腰から浅黄の手拭《てぬぐい》を出した。それを肝心綯《かんじんより》のように細長く綯《よ》った。そうして地面《じびた》の真中に置いた。それから手拭の周囲《まわり》に、大きな丸い輪を描《か》いた。しまいに肩にかけた箱の中から真鍮《しんちゅう》で製《こし》らえた飴屋《あめや》の笛《ふえ》を出した。
「今にその手拭が蛇《へび》になるから、見ておろう。見ておろう」と繰返《くりかえ》して云った。
子供は一生懸命に手拭を見ていた。自分も見ていた。
「見ておろう、見ておろう、好いか」と云いながら爺さんが笛を吹いて、輪の上をぐるぐる廻り出した。自分は手拭ばかり見ていた。けれども手拭はいっこう動かなかった。
爺さんは笛をぴいぴい吹いた。そうして輪の上を何遍も廻った。草鞋《わらじ》を爪立《つまだ》てるように、抜足をするように、手拭に遠慮をするように、廻った。怖《こわ》そうにも見えた。面白そうにもあった。
やがて爺さんは笛をぴたりとやめた。そうして、肩に掛けた箱の口を開けて、手拭の首を、ちょいと撮《つま》んで、ぽっと放《ほう》り込《こ》んだ。
「こうしておくと、箱の中で蛇《へび》になる。今に見せてやる。今に見せてやる」と云いながら、爺さんが真直に歩き出した。柳の下を抜けて、細い路を真直に下りて行った。自分は蛇が見たいから、細い道をどこまでも追《つ》いて行った。爺さんは時々「今になる」と云ったり、「蛇になる」と云ったりして歩いて行く。しまいには、
「今になる、蛇になる、
きっとなる、笛が鳴る、」
と唄《うた》いながら、とうとう河の岸へ出た。橋も舟もないから、ここで休んで箱の中の蛇を見せるだろうと思っていると、爺さんはざぶざぶ河の中へ這入《はい》り出した。始めは膝《ひざ》くらいの深さであったが、だんだん腰から、胸の方まで水に浸《つか》って見えなくなる。それでも爺さんは
「深くなる、夜になる、
真直になる」
と唄いながら、どこまでも真直に歩いて行った。そうして髯《ひげ》も顔も頭も頭巾《ずきん》もまるで見えなくなってしまった。
自分は爺さんが向岸《むこうぎし》へ上がった時に、蛇を見せるだろうと思って、蘆《あし》の鳴る所に立って、たった一人いつまでも待っていた。けれども爺さんは、とうとう上がって来なかった。
第五夜
こんな夢を見た。
何でもよほど古い事で、神代《かみよ》に近い昔と思われるが、自分が軍《いくさ》をして運悪く敗北《まけ》たために、生擒《いけどり》になって、敵の大将の前に引き据《す》えられた。
その頃の人はみんな背が高かった。そうして、みんな長い髯を生《は》やしていた。革の帯を締《し》めて、それへ棒のような剣《つるぎ》を釣るしていた。弓は藤蔓《ふじづる》の太いのをそのまま用いたように見えた。漆《うるし》も塗ってなければ磨《みが》きもかけてない。極《きわ》めて素樸《そぼく》なものであった。
敵の大将は、弓の真中を右の手で握って、その弓を草の上へ突いて、酒甕《さかがめ》を伏せたようなものの上に腰をかけていた。その顔を見ると、鼻の上で、左右の眉《まゆ》が太く接続《つなが》っている。その頃|髪剃《かみそり》と云うものは無論なかった。
自分は虜《とりこ》だから、腰をかける訳に行かない。草の上に胡坐《あぐら》をかいていた。足には大きな藁沓《わらぐつ》を穿《は》いていた。この時代の藁沓は深いものであった。立つと膝頭《ひざがしら》まで来た。その端《はし》の所は藁《わら》を少し編残《あみのこ》して、房のように下げて、歩くとばらばら動くようにして、飾りとしていた。
大将は篝火《かがりび》で自分の顔を見て、死ぬか生きるかと聞いた。これはその頃の習慣で、捕虜《とりこ》にはだれでも一応はこう聞いたものである。生きると答えると降参した意味で、死ぬと云うと屈服《くっぷく》しないと云う事になる。自分は一言《ひとこと》死ぬと答えた。大将は草の上に突いていた弓を向うへ抛《な》げて、腰に釣るした棒のような剣《けん》をするりと抜きかけた。それへ風に靡《なび》いた篝火《かがりび》が横から吹きつけた。自分は右の手を楓《かえで》のように開いて、掌《たなごころ》を大将の方へ向けて、眼の上へ差し上げた。待てと云う相図である。大将は太い剣をかちゃりと鞘《さや》に収めた。
その頃でも恋はあった。自分は死ぬ前に一目思う女に逢《あ》いたいと云った。大将は夜が開けて鶏《とり》が鳴くまでなら待つと云った。鶏が鳴くまでに女をここへ呼ばなければならない。鶏が鳴いても女が来なければ、自分は逢わずに殺されてしまう。
大将は腰をかけたまま、篝火を眺めている。自分は大きな藁沓《わらぐつ》を組み合わしたまま、草の上で女を待っている。夜はだんだん更《ふ》ける。
時々篝火が崩《くず》れる音がする。崩れるたびに狼狽《うろた》えたように焔《ほのお》が大将になだれかかる。真黒な眉《まゆ》の下で、大将の眼がぴかぴかと光っている。すると誰やら来て、新しい枝をたくさん火の中へ抛《な》げ込《こ》んで行く。しばらくすると、火がぱちぱちと鳴る。暗闇《くらやみ》を弾《はじ》き返《かえ》すような勇ましい音であった。
この時女は、裏の楢《なら》の木に繋《つな》いである、白い馬を引き出した。鬣《たてがみ》を三度|撫《な》でて高い背にひらりと飛び乗った。鞍《くら》もない鐙《あぶみ》もない裸馬《はだかうま》であった。長く白い足で、太腹《ふとばら》を蹴《け》ると、馬はいっさんに駆《か》け出した。誰かが篝りを継《つ》ぎ足《た》したので、遠くの空が薄明るく見える。馬はこの明るいものを目懸《めが》けて闇の中を飛んで来る。鼻から火の柱のような息を二本出して飛んで来る。それでも女は細い足でしきりなしに馬の腹を蹴《け》っている。馬は蹄《ひづめ》の音が宙で鳴るほど早く飛んで来る。女の髪は吹流しのように闇《やみ》の中に尾を曳《ひ》いた。それでもまだ篝《かがり》のある所まで来られない。
すると真闇《まっくら》な道の傍《はた》で、たちまちこけこっこうという鶏の声がした。女は身を空様《そらざま》に、両手に握った手綱《たづな》をうんと控《ひか》えた。馬は前足の蹄《ひづめ》を堅い岩の上に発矢《はっし》と刻《きざ》み込んだ。
こけこっこうと鶏《にわとり》がまた一声《ひとこえ》鳴いた。
女はあっと云って、緊《し》めた手綱を一度に緩《ゆる》めた。馬は諸膝《もろひざ》を折る。乗った人と共に真向《まとも》へ前へのめった。岩の下は深い淵《ふち》であった。
蹄の跡《あと》はいまだに岩の上に残っている。鶏の鳴く真似《まね》をしたものは天探女《あまのじゃく》である。この蹄の痕《あと》の岩に刻みつけられている間、天探女は自分の敵《かたき》である。
第六夜
運慶《うんけい》が護国寺《ごこくじ》の山門
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