。怪《け》しからん。
 隣の広間の床に据《す》えてある置時計が次の刻《とき》を打つまでには、きっと悟って見せる。悟った上で、今夜また入室《にゅうしつ》する。そうして和尚の首と悟りと引替《ひきかえ》にしてやる。悟らなければ、和尚の命が取れない。どうしても悟らなければならない。自分は侍である。
 もし悟れなければ自刃《じじん》する。侍が辱《はずか》しめられて、生きている訳には行かない。綺麗《きれい》に死んでしまう。
 こう考えた時、自分の手はまた思わず布団《ふとん》の下へ這入《はい》った。そうして朱鞘《しゅざや》の短刀を引《ひ》き摺《ず》り出した。ぐっと束《つか》を握って、赤い鞘を向へ払ったら、冷たい刃《は》が一度に暗い部屋で光った。凄《すご》いものが手元から、すうすうと逃げて行くように思われる。そうして、ことごとく切先《きっさき》へ集まって、殺気《さっき》を一点に籠《こ》めている。自分はこの鋭い刃が、無念にも針の頭のように縮《ちぢ》められて、九寸《くすん》五分《ごぶ》の先へ来てやむをえず尖《とが》ってるのを見て、たちまちぐさりとやりたくなった。身体《からだ》の血が右の手首の方へ流れて来て
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