ぱっと明かるくなった。
襖《ふすま》の画《え》は蕪村《ぶそん》の筆である。黒い柳を濃く薄く、遠近《おちこち》とかいて、寒《さ》むそうな漁夫が笠《かさ》を傾《かたぶ》けて土手の上を通る。床《とこ》には海中文殊《かいちゅうもんじゅ》の軸《じく》が懸《かか》っている。焚《た》き残した線香が暗い方でいまだに臭《にお》っている。広い寺だから森閑《しんかん》として、人気《ひとけ》がない。黒い天井《てんじょう》に差す丸行灯《まるあんどう》の丸い影が、仰向《あおむ》く途端《とたん》に生きてるように見えた。
立膝《たてひざ》をしたまま、左の手で座蒲団《ざぶとん》を捲《めく》って、右を差し込んで見ると、思った所に、ちゃんとあった。あれば安心だから、蒲団をもとのごとく直《なお》して、その上にどっかり坐《すわ》った。
お前は侍《さむらい》である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚《おしょう》が云った。そういつまでも悟れぬところをもって見ると、御前は侍ではあるまいと言った。人間の屑《くず》じゃと言った。ははあ怒ったなと云って笑った。口惜《くや》しければ悟った証拠を持って来いと云ってぷいと向《むこう》をむいた
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