ら段々を下りて来て二十間の敷石を往ったり来たり御百度《おひゃくど》を踏む。
 拝殿に括《くく》りつけられた子は、暗闇《くらやみ》の中で、細帯の丈《たけ》のゆるす限り、広縁の上を這《は》い廻っている。そう云う時は母にとって、はなはだ楽《らく》な夜である。けれども縛《しば》った子にひいひい泣かれると、母は気が気でない。御百度の足が非常に早くなる。大変息が切れる。仕方のない時は、中途で拝殿へ上《あが》って来て、いろいろすかしておいて、また御百度を踏み直す事もある。
 こう云う風に、幾晩となく母が気を揉《も》んで、夜《よ》の目も寝ずに心配していた父は、とくの昔に浪士《ろうし》のために殺されていたのである。
 こんな悲《かなし》い話を、夢の中で母から聞いた。

     第十夜

 庄太郎が女に攫《さら》われてから七日目の晩にふらりと帰って来て、急に熱が出てどっと、床に就《つ》いていると云って健《けん》さんが知らせに来た。
 庄太郎は町内一の好男子《こうだんし》で、至極《しごく》善良な正直者である。ただ一つの道楽がある。パナマの帽子を被《かぶ》って、夕方になると水菓子屋《みずがしや》の店先へ腰を
前へ 次へ
全41ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング