はまず鈴を鳴らしておいて、すぐにしゃがんで柏手《かしわで》を打つ。たいていはこの時梟が急に鳴かなくなる。それから母は一心不乱に夫の無事を祈る。母の考えでは、夫が侍《さむらい》であるから、弓矢の神の八幡《はちまん》へ、こうやって是非ない願《がん》をかけたら、よもや聴《き》かれぬ道理はなかろうと一図《いちず》に思いつめている。
子供はよくこの鈴の音で眼を覚《さ》まして、四辺《あたり》を見ると真暗だものだから、急に背中で泣き出す事がある。その時母は口の内で何か祈りながら、背を振ってあやそうとする。すると旨《うま》く泣《な》きやむ事もある。またますます烈《はげ》しく泣き立てる事もある。いずれにしても母は容易に立たない。
一通《ひととお》り夫の身の上を祈ってしまうと、今度は細帯を解いて、背中の子を摺《ず》りおろすように、背中から前へ廻して、両手に抱《だ》きながら拝殿を上《のぼ》って行って、「好い子だから、少しの間《ま》、待っておいでよ」ときっと自分の頬を子供の頬へ擦《す》りつける。そうして細帯を長くして、子供を縛《しば》っておいて、その片端を拝殿の欄干《らんかん》に括《くく》りつける。それか
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