は若い母と三つになる子供がいる。父はどこかへ行った。父がどこかへ行ったのは、月の出ていない夜中であった。床《とこ》の上で草鞋《わらじ》を穿《は》いて、黒い頭巾《ずきん》を被《かぶ》って、勝手口から出て行った。その時母の持っていた雪洞《ぼんぼり》の灯《ひ》が暗い闇《やみ》に細長く射して、生垣《いけがき》の手前にある古い檜《ひのき》を照らした。
 父はそれきり帰って来なかった。母は毎日三つになる子供に「御父様は」と聞いている。子供は何とも云わなかった。しばらくしてから「あっち」と答えるようになった。母が「いつ御帰り」と聞いてもやはり「あっち」と答えて笑っていた。その時は母も笑った。そうして「今に御帰り」と云う言葉を何遍となく繰返して教えた。けれども子供は「今に」だけを覚えたのみである。時々は「御父様はどこ」と聞かれて「今に」と答える事もあった。
 夜になって、四隣《あたり》が静まると、母は帯を締《し》め直して、鮫鞘《さめざや》の短刀を帯の間へ差して、子供を細帯で背中へ背負《しょ》って、そっと潜《くぐ》りから出て行く。母はいつでも草履《ぞうり》を穿いていた。子供はこの草履の音を聞きながら母の
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