もまた、世間の知る通りなんだから、河村さんに対して敬意を失するような冗談は云えた義理のものでない。やむをえず、しかつめらしい顔をして、満鉄のやっているいろいろな事業一般について知識を得たいと述べた。――何でも述べたつもりである。固《もと》より内心に確乎《かっこ》たる覚悟があって述べる事でないんだから、顔だけはしかつめらしいが、述べる事の内容は、すこぶる赤毛布式《あかげっとしき》に縹緲《ひょうびょう》とふわついていたに違ない。ただ今から顧みても、少し得意なのは、その時余の態度挙動は非常に落ちついて、魂がさも丹田《たんでん》に膠着《こうちゃく》しているかのごとく河村さんには見えたろうという自覚である。人を欺《だま》し終《おお》せて知らん顔をしているのは善《よ》くない事だから、ここで全く懺悔《ざんげ》してしまうが、実を云うと、その時は胃がしくしく痛んで、言葉に抑揚をつけようにも、声に張りを見せようにも、身体《からだ》に活気を漲《みな》ぎらせようにも、とうてい自己が自己以上に沈着してしまって、一寸《いっすん》もあがきが取れなかったのである。
 そこへ大きな印刷ものが五六冊出て来た。一番上には第
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