。あれで約三十万円の価格ですと河野さんが云った。門の出口には防材《ぼうざい》の標本が一本寝かしてあった。その先から尖《とが》った剣《けん》のようなものが出ていた。
二十九
風呂を注文しておいたら、用意ができたと見えて、向うの部屋で、湯の迸《ほと》ばしる音が盛《さかん》にする。靴を脱いで、スリッパアをつっかけて、戸を開けに掛ると、まだ廊下に出ないうちに給仕がやって来た。田中さんがいっしょにスキ焼を食べにいらっしゃいませんかと云う案内である。スキ焼の名はこの際両人に取って珍らしい響がした。けれども白状すると、毫《ごう》も食う気にはならなかった。スキ焼って家《うち》で拵《こしら》えるのかいと尋ねると、いえ近所の料理屋ですと云う。近所の料理屋はスキ焼よりも一層不思議な言葉である。ホテルの窓から往来を一日眺めていたって、通行人は滅多《めった》に眼に触れないところである。外へ出て広い路を岡の上まで見通すと、左右の家《うち》は数えるほどしか並んでいない。そうしてそれがことごとく西洋館である。しかも三分の一は半建《はんだて》のまま雨露《あめつゆ》に曝《さら》されている。他の三分の一は空家《あきや》である。残る三分の一には無論人が住んでいる。けれどもその主人はたいてい月給を取って衣食するものとしか受け取れない構《かまえ》である。新市街という名はあるにしても、その実《じつ》は閑静な寂《さび》れた屋敷町に過ぎない。その屋敷のどこにスキ焼を食わす家があるかと思うと、一種小説に近い心持が起る。
ただ、昼の疲れを忘れるため、胃の不安を逃《のが》れるため、早く湯に入って、レースの蚊帳《かや》の中で、穏かに寝たかった。そこで給仕に、今湯に這入りかけているからね、少し時間が取れるかも知れないから、田中さんに、どうか御先《おさき》へと云ってくれと頼んだ。すると傍《そば》にいる橋本が例のごとく、そりゃいかんよと云い出した。せっかく誘ってくれるものを、そんな挨拶《あいさつ》をする法はないぜと、また長い説教が始まりそうで恐ろしくなったので、仕方がないからうんよしよし、それじゃあね、今湯に這入《はい》っていますから、すぐ行きますってそう云ってくれ、よく云うんだよ、分ったかねと念を押してすぐ風呂に飛込んだ。
そうして、少しも弱った顔を見せずにみんなと連れ立って、ホテルを出た。空はよく晴れて、星が遠くに見える晩であったが、月がないので往来は暗かった。危《あぶ》のうございますから御案内を致しましょうと云って、ホテルの小僧がついて来た。草の生えた四角な空地《あきち》を横切って、瓦斯《ガス》も電気もない所を、茫漠《ぼうばく》と二丁ほど来ると、門の奥から急に強い光が射した。玄関に女が二三人出ている。我々の来るのを待っていたような挨拶をした。座敷は畳が敷いて胡坐《あぐら》がかけるようになっていた。窓を見ると、壁の厚さが一尺ほどあったので、始めて普通の日本家屋でないと云う事が解った。窓の高さは畳から一尺に足りないから、足をかけると厚い壁の上に乗る事ができる。女が危のうございますと云った。外を覗《のぞ》いたら真闇《まっくら》に静かであった。
女は三四人で、いずれも東京の言葉を使わなかった。田中君はわざと名古屋訛《なごやなまり》を真似《まね》て調戯《からか》っていた。女は御上手だ事とか、御上手やなとか、何とか云って賞《ほ》めていた。ところが前触《まえぶれ》のスキ焼はなかなか出て来ない。酒を飲まないで、肴《さかな》を突っついて手持無沙汰《てもちぶさた》であった。スキ焼があらわれても、胃の加減で旨《うま》くも何ともなかった。天下に何が旨いってスキ焼ほど旨いものは無いと思うがねと田中君が云った。田中君はスキ焼の主唱者だけあって、大変食べた。傍《はた》で見ていて羨《うらや》ましいほど食べた。余はしようがないから畳の上に仰向《あおむき》に寝ていた。すると女の一人が枕を御貸し申しましょうかと云いながら、自分の膝《ひざ》を余の頭の傍《そば》へ持って来た。この枕では御気に入りますまいとか何とか弁じている。結構だから、もう少しこっちの方へ出してくれと頼んで、その女の膝の上に頭を乗せて寝ていた。不思議な事に、橋本も活動の余地がないものと見えて、余と同様の真似《まね》をして、向うの方に長くなっている。枕元では田中君が女を相手に碁石《ごいし》でキシャゴ弾《はじ》きをやって大騒ぎをしている。余があまり静《しずか》だものだから、膝を貸した女は眠ったのだと思って、顋《あご》の下をくすぐった。
帰るときには、神《かみ》さんらしいものが、しきりに泊って行けと勧めた。門を出るとまた急に暗くなった。森閑《しんかん》として人の気合《けわい》のない往来をホテルまで、影のように歩いて来て、今までの派出《
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