同郷だと云うから、差し向いで芥舟の評判を少しやった。
また室《へや》を出て海を眺めた。すると先刻《さっき》黒い影を波の上に残して、遠くの向うを動いていた船が、すぐ眼の前に見える。大きさは鉄嶺丸《てつれいまる》とほぼ同じぐらいに思われるが、船足《ふなあし》がだいぶ遅《のろ》いと見えて、しばらくの間《ま》にもうこれほど追《おっ》つかれたのである。欄干《らんかん》に頬杖《ほおづえ》を突いて、見ていると鉄嶺丸が刻一刻と後《うしろ》から逼《せま》って行くのがよく分る。しまいには黄色い文字で書いた営口丸《えいこうまる》の三字さえ明《あきら》かに読めるようになった。やがて余の船の頭が営口丸の尻より先へ出た。そうして、尻から胴の方へじりじりと競《せ》り上《あ》げて行った。船は約一丁を隔ててほとんど並行《へいこう》の姿勢で進行している。もう七八分すると、余の船は全く営口丸を乗り切る事ができそうに思われた。時に約一丁もあろうと云う船と船の間隔が妙に逼《せま》って来た。向うの甲板にいる乗客《じょうかく》の影が確《たしか》に勘定《かんじょう》ができるようになった。見るとことごとく西洋人である。中には眼鏡《めがね》を出してこっちを眺めているのもあった。けれども見るうちに眼鏡は不必要になった。髪の色も眼鼻立《めはなだち》も甲板に立っている人は御互に鮮《あざや》かな顔を見合せるほど船は近くなった。その時は全く美しかった。と思うと、船は今までよりも倍以上の速力を鼓《こ》して刹那《せつな》に近寄り始めた。海の水を細い谷川のように仕切って、営口丸の船体が、六尺ほどの眼の前に黒く切っ立った時は、ああ打《ぶ》つかるなと思った。途端《とたん》に向うの舳《へさき》は余の眼を掠《かす》めて過ぎ去りつつ、逼《せま》りつつ、とうとう中等甲板の角《かど》の所まで行ってどさりと当った。同時に甲板の上に釣るしてあった端艇《ボート》が二|艘《そう》ほどでんぐり返った。端艇を繋《つな》いであった鉄の棒は無雑作《むぞうさ》に曲った。営口丸の船員は手を拍《う》ってわあと囃《はや》し立《た》てた。余と並んで立っていた異人が、妙な声を出してダム何とか云った。
一時間の後《のち》佐治さんがやって来て、夏目さん身をかわす[#「かわす」に傍点]のかわす[#「かわす」に傍点]と云う字はどう書いたら好いでしょうと聞くから、そうですねと云って見たが、実は余も知らなかった。為替《かわせ》の替《かわ》せると云う字じゃいけませんかとはなはだ文学者らしからぬ事を答えると、佐治さんは承知できない顔をして、だってあれは物を取り替える時に使うんでしょうとやり込めるから、やむをえず、じゃ仮名《かな》が好いでしょうと忠告した。佐治さんは呆《あき》れて出て行った。後で聞くと、衝突の始末を書くので、その中に、本船は身をかわしと云う文句を入れたかったのだそうである。
四
船が飯田河岸《いいだがし》のような石垣へ横にぴたりと着くんだから海とは思えない。河岸の上には人がたくさん並んでいる。けれどもその大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚《きた》ならしいが、二人寄るとなお見苦しい。こうたくさん塊《かたま》るとさらに不体裁《ふていさい》である。余は甲板の上に立って、遠くからこの群集を見下《みおろ》しながら、腹の中で、へえー、こいつは妙な所へ着いたねと思った。そのうち船がだんだん河岸に近づいてくるに従って、陸《おか》の方で帽子を振って知人に挨拶《あいさつ》をするものなどができて来た。宣教師のウィンという人の妻君が、中村さんが多分迎えに来ておいででしょうと、笑いながら御世辞《おせじ》を云ったが、電報も打たず、いつ着くとも知らせなかった余の到着を、いくら権威赫々《けんいかくかく》たる総裁だって予知し得る道理がない。余は欄干《らんかん》に頬杖《ほおづえ》を突きながら、なるほどこいつはどうしたものかな、ひとまず是公の家《うち》へ行って宿を聞いて、それからその宿へ移る事にでもするかなと思ってるうちに、船は鷹揚《おうよう》にかの汚ならしいクーリー団の前に横づけになって止まった。止まるや否や、クーリー団は、怒《おこ》った蜂《はち》の巣のように、急に鳴動《めいどう》し始めた。その鳴動の突然なのには、ちょっと胆力を奪われたが、何しろ早晩地面の上へ下りるべき運命を持った身体《からだ》なんだから、しまいにはどうかしてくれるだろうと思って、やっぱり頬杖を突いて河岸の上の混戦を眺めていた。すると佐治さんが来て、夏目さんどこへおいでになりますと聞いてくれた。まあひとまず総裁の家《うち》へでも行って見ましょうと答えていると、そこへ背の高い、紺色《こんいろ》の夏服を着た立派な紳士が出て来て、懐中から名刺を出して叮嚀《ていねい》に挨拶をされた。
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