それが秘書の沼田《ぬまた》さんだったので、頬杖を突いて、いつまでも鳴動を眺めている余には、大変な好都合になった。沼田さんは今度郷里から呼び迎えられた老人を、自宅へ案内されるために、船まで来られたのだそうだが、同じ鉄嶺丸に余の乗っている事を聞いて、わざわざ刺《し》を通じられたのである。
 じゃホテルの馬車でと沼田さんが佐治さんに話している。河岸《かし》の上を見ると、なるほど馬車が並んでいた。力車《りきしゃ》もたくさんある、ところが力車はみんな鳴動連《めいどうれん》が引くので、内地のに比べるとはなはだ景気が好くない。馬車の大部分もまた鳴動連によって、御《ぎょ》せられている様子である。したがっていずれも鳴動流に汚《きた》ないものばかりであった。ことに馬車に至っては、その昔日露戦争の当時、露助《ろすけ》が大連を引上げる際に、このまま日本人に引渡すのは残念だと云うので、御叮嚀《ごていねい》に穴を掘って、土の中に埋《う》めて行ったのを、チャンが土の臭《におい》を嗅《か》いで歩いて、とうとう嗅ぎあてて、一つ掘っては鳴動させ、二つ掘っては鳴動させ、とうとう大連を縦横《たてよこ》十文字に鳴動させるまでに掘り尽くしたと云う評判のある、――評判だから、本当の事は分らないが、この評判があらゆる評判のうちでもっとも巧妙なものと、誰しも認めざるを得ないほどの泥だらけの馬車である。
 その中に東京の真中でも容易に見る事のできないくらい、新しい奇麗《きれい》なのが二台あった。御者《ぎょしゃ》が立派なリヴェリーを着て、光った長靴を穿《は》いて、哈爾賓《ハルピン》産の肥えた馬の手綱《たづな》を取って控えていた。佐治さんは、船から河岸へ掛けた橋を渡って、鳴動の中を突き切って、わざわざ余をその奇麗な馬車の傍《そば》まで連れて行った。さあ御乗んなさいと勧めながら、すぐ御者台の方へ向いて、総裁の御宅までと注意を与えた。御者はすぐ鞭《むち》を執《と》った。車は鳴動の中《うち》を揺《ゆる》ぎ出《だ》した。

        五

 門を這入《はい》って馬車の輪が砂利の上を二三間|軋《きし》ったかと思うと、馬は大きな玄関の前へ来て静かに留まった。石段を上《あが》って、入口の所に立つや否や、色の白い十四五の給仕が、頑丈《がんじょう》な樫《かし》の戸を内から開いて、余の顔を見ながら挨拶《あいさつ》をした。もう御帰りかと尋ねると、まだでございますと云う。留守《るす》では仕方がない。どうしたものだろうと思って、石の上に佇《たた》ずんで首を傾《かたぶ》けているところへ、後《うしろ》に足音がするようだからふり向くと、先刻《さっき》鉄嶺丸で知己《ちかづき》になった沼田さんである。さあ、どうぞと云われるので、中《うち》に入った。沼田さんは先へ立って、ホールの突き当りにある厚い戸を開いた。その戸の中へ首を突っ込んで、室《へや》の奥を見渡した時に、こりゃ滅法広いなと思った。数字の観念に乏しい性質《たち》だから何畳敷だかとんと要領を得ないが、何でも細長い御寺の本堂のような心持がした。その広い座敷がただ一枚の絨毯《じゅうたん》で敷きつめられて、四角《よすみ》だけがわずかばかり華《はな》やかな織物の色と映《て》り合《あ》うために、薄暗く光っている。この大きな絨毯《じゅうたん》の上に、応接用の椅子《いす》と卓《テーブル》がちょんぼり二所《ふたところ》に並べてある。一方の卓と一方の卓とは、まるで隣家《りんか》の座敷ぐらい離れている。沼田さんは余をその一方に導いて席を与えられた。仰向《あおむ》いて見ると天井《てんじょう》がむやみに高い。高いはずである。室《へや》の入口には二階がついていて、その二階の手摺《てすり》から、余の坐っている所が一目に見下《みおろ》されるような構造なんだから、つまるところは、余の頭の上が、一階の天井|兼《けん》二階の天井である。後《のち》に人の説明を聞いて始めて知ったのだが、このだだっ広い応接間は、実は舞踏室で、それを見下《みくだ》している手摺付の二階は、楽隊の楽を奏する所にできているのだそうだ。そんなら、そうと早くから教えてくれれば、安心するものを、断りなしに急に仏様のない本堂へ案内されたものだからまず一番に吃驚《びっくり》した。余は大連滞在中何度となくこの部屋を横切って、是公《ぜこう》の書斎へ通ったので、喫驚《びっくり》する事は、最初の一度だけですんだが、通るたんびに、おりもせぬ阿弥陀様《あみださま》を思い出さない事はなかった。
 室を這入《はい》って右は、往来を向いた窓で、左の中央から長い幕が次の部屋の仕切りに垂れている。正面に五尺ほどの盆栽を二|鉢《はち》置いて、横に奇麗《きれい》な象の置物が据《す》えてある。大きさは豚の子ほどある。これは狸穴《まみあな》の支社の客間で見たも
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