この河原《かわら》の幅は、向うに見える高粱《こうりょう》の畠《はたけ》まで行きつめた事がないからどのくらいか分らないが、とにかく眼が平《たいら》になるほど広いものである。その平《たい》らなどこを、どう掘っても、湯が湧《わ》いて来るのだから、裸体《はだか》になって、手で砂を掻《か》き分けて、凹《くぼ》んだ処《ところ》へ横になれば、一文も使わないで事は済む。その上寝ながら腹の上へ砂を掛ければ、温泉の掻巻《かいまき》ができる訳である。ただ砂の中を潜《もぐ》って出る湯がいかにも熱い。じくじく湧《わ》いたものを、大きな湯槽《ゆぶね》に溜めて見ると、色だけは非常に奇麗《きれい》だが、それに騙《だま》されてうっかり飛び込もうものなら苛《ひど》い目に逢《あ》う。橋本と余は、勢いよく浴衣《ゆかた》を抛《な》げて、競争的に毛脛《けずね》を突込《つっこ》んで、急に顔を見合せながら縮《ちぢ》んだ事がある。大の男がわざわざ裸になって、その裸の始末をつけかねるのはきまりが好いものじゃないから、両人《ふたり》は顔を見合せて苦笑しながら小屋を飛び出して、四半丁《しはんちょう》ほど先の共同風呂まで行って、平気な風にどぼりと浸《つか》った。
風呂から出て砂の中に立ちながら、河の上流を見渡すと、河がぐるりと緩《ゆる》く折れ曲っている。その向う側に五六本の大きな柳が見える。奥には村があるらしい。牛と馬が五六頭水を渉《わた》って来た。距離が遠いので小さく動いているが、色だけは判然《はっきり》分る。皆茶褐色をして柳の下に近づいて行く。牛追は牛よりもなお小さかった。すべてが世間で云う南画《なんが》と称するものに髣髴《ほうふつ》として面白かった。中にも高い柳が細い葉をことごとく枝に収めて、静まり返っているところは、全く支那めいていた。遠くから望んでも日本の柳とは趣《おもむき》が違うように思われた。水は柳の茂るところで見えなくなっているが、なおその先を辿《たど》って行くと、たちまち眼にぶつかるような大きな山脈がある。襞《ひだ》が鋭く刻まれているせいか、ある部分は雪が積ったほど白く映る。そのくらいに周囲はどす黒かった。漢語には崔嵬《さいかい》とか※[#「山+贊」、第4水準2−8−72]※[#「山+元」、第3水準1−47−69]《さんがん》とか云って、こう云う山を形容する言葉がたくさんあるが、日本には一つも見当らない。あれは何と云う山だろうと傍《そば》にいる大重君《おおしげくん》に尋ねたら、大重君も知らなかった。大重君は支那語の通訳として橋本に随《つ》いて蒙古《もうこ》まで行った男である。余の質問を受けるや否やどこかへ消えて無くなったが、やがて帰って来て、高麗城子《こまじょうし》と云うんだそうですと教えてくれた。土人を捕《つら》まえて聞いて来たのだそうである。固《もと》より支那音《しなおん》で教わったのだが、それは忘れてしまった。
濡《ぬ》れ手拭《てぬぐい》を下げて、砂の中をぼくぼく橋の傍《そば》まで帰って来ると、崖《がけ》の上から若い女が跣足《はだし》で降りて来た。橋は一尺に足らぬ幅だからどっちかで待ち合せなければなるまいと思ったが、向うはまだ土堤《どて》を下《お》りきらないので、こっちは躊躇《ちゅうちょ》せず橋板《はしいた》に足をかけた。下駄《げた》を二三度鳴らして、一間ほど来たとき、女も余と同じ平面に立った。そこで留まると思いのほか、ひらひらと板の上を舞うように進んで余に近づいた。余と女とは板と板の継目《つぎめ》の所で行き合った。危《あぶ》ないよと注意すると、女は笑いながら軽い御辞儀《おじぎ》をして、余の肩を擦《こす》って行き過ぎた。
三十四
明日《あした》は梨畑《なしばたけ》を見に行くんだと橋本から申し渡されたので、宜《よろ》しいと受合った上、床《とこ》についたようなものの実を云うと例のトロで揺られるのが内心|苦《く》になった。そのせいでもなかろうが、容易に寝つかれない。橋本はもう鼾《いびき》をかいている。しかも豪宕《ごうとう》な鼾である。緞子《どんす》の夜具《やぐ》の中から出るべき声じゃない。まして裾《すそ》の方には金屏風《きんびょうぶ》が立て回してある。
明日になると、空が曇って小雨《こさめ》が落ちている。窓から首を出して、一面に濡《ぬ》れた河原《かわら》の色を眺めながら、おれは梨畑をやめて休養しようかしらと云い出した。橋本は合羽《かっぱ》ももっているし、オヴァーシューも用意して来ているのでなかなか景気が好い。ことに農科の教授だけあって、梨を見たがったり、栗を見たがったり、豚や牛を見たがる事人一倍である。早速用意をして大重君を伴《つ》れて出て行った。余はただつくねんとして、窓の中に映る山と水と河原と高粱《こうりょう》とを眼の底に陳列さしてい
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