らしい。軌道《レール》の間から草が生えている。軌道の外にも草が生えている。先まで見渡すと、鉄色の筋が二本|栄《は》えない草の中を真直《まっすぐ》に貫《つら》ぬいている。しかし細い筋が草に隠れて、行方知《ゆきがたし》れずになるまで眺め尽しても、建物らしいものは一軒も見当らなかった。そうして軌道の両側はことごとく高粱《こうりょう》であった。その大きな穂先は、眼の届く限り代赭《たいしゃ》で染めたように日の光を吸っている。橋本と余と荷物とは、この広漠《こうばく》な畠《はたけ》の中を、トロに揺られながら、眩《まぶ》しそうに動いた。トロは頑丈《がんじょう》な細長い涼み台に、鉄の車を着けたものと思えば差支《さしつか》えない。軌道の上を転《ころ》がす所を、よそから見ていると、はなはだ滑《なめ》らかで軽快に走るが、実地に乗れば、胃に響けるほど揺れる。押すものは無論支那人である。勢いよく二三十間突いておいて、ひょいと腰をかける。汗臭《あせくさ》い浅黄色《あさぎいろ》の股引《ももひき》が背広《せびろ》の裾《すそ》に触《さわ》るので気味が悪い事がある。すると、速力の鈍った頃を見計《みはか》らって、また素足《すあし》のまま飛び下りて、肩と手をいっしょにして、うんうん押す。押さなければいいと思うぐらい、車が早く廻るので、乗ってる人の臓器《ぞうき》は少からず振盪《しんとう》する。余はこのトロに運搬されたため、悪い胃を著るしく悪くした。車の上では始終《しじゅう》ゼムを含んで早く目的地へ着けば好いと思っていた。勢いよく駆《か》けられれば、駆けられるほどなお辛《つら》かった。それでも台からぶら下げた足を折らなかったのが、まだ仕合せである。実際酒に酔って腰をかけたまま脛《すね》を折っぺしょった人があるそうだ。見ると橋本の帽子の鍔《つば》が風に吹かれてひらひらと靡《なび》いている。余は鳥打の前廂《まえびさし》を深く下げてなるべく日に背《せな》を向けるようにしていた。
 苦しい十五分か廿分の後《のち》車はようやく留まった。軌道の左側だけが、畠《はた》を切り開いて平らにしてある。眼を蔽《おお》う高粱の色を、百坪余り刈り取って、黒い砂地にした迹《あと》へ、左右に長い平屋を建てた。壁の色もまだ新しかった。玄関を這入って座敷へ通ると、窓の前は二間ほどしかない。その縁《ふち》に朝顔のような草が繁《しげ》っているが、絡《から》まる竹も杖《つえ》もないので、蔓《つる》と云わず、葉と云わず、花を包んで雑然と簇《むら》がるばかりである。朝顔の下はすぐ崖《がけ》で、崖の向うは広い河原《かわら》になる。水は崖の真下を少し流れるだけであった。
 橋本と余は、申し合せたように立って窓から外を眺めていた。首を出すと、崖下にも家が一軒ある。しかし屋根瓦《やねがわら》しか見えない。支那流の古い建物で、廻廊のような段々を藉《か》りて、余のいる部分に続いているらしく思われる。あれは何だいと聞いて見た。料理場と子供を置く所になっていますと答えた。子供とは酌婦《しゃくふ》芸妓《げいしゃ》の類《たぐい》を指《さ》すものだろうと推察した。眼の下に橋が渡してある。厚くはあるが幅一尺足らずの板を八つ橋に継《つ》いだものに過ぎない。水はただ砂を洗うほどに流れている。足の甲を濡《ぬ》らしさえすれば徒歩渉《かちわた》るのは容易である。橋本の後《あと》に食付《くっつ》いて手拭《てぬぐい》をぶら下げて、この橋を渡った時、板の真中で立ち留まって、下を覗《のぞ》き込んで見たら、砂が動くばかりで水の色はまるでなかった。十里ほど上《かみ》に遡《さかの》ぼると鮎《あゆ》が漁《と》れるそうだ。余は汽車の中で鮎のフライを食って満洲には珍らしい肴《さかな》だと思った。おそらくこの上流からクーリーが売りに来たものだろう。

        三十三

 足駄《げた》を踏むとざぐりと這入《はい》る。踵《くびす》を上げるとばらばらと散る。渚《なぎさ》よりも恐ろしい砂地である。冷たくさえなければ、跣足《はだし》になって歩いた方が心持が好い。俎《まないた》を引摺《ひきず》っていては一足《ひとあし》ごとに後《あと》しざるようで歯痒《はがゆ》くなる。それを一町ほど行って板囲《いたがこい》の小屋の中を覗《のぞ》き込むと、温泉《ゆ》があった。大きい四角な桶《おけ》を縁《ふち》まで地の中に埋《い》け込《こ》んだと同じような槽《ふね》である。温泉はいっぱい溜《たま》っていたが、澄み切って底まで見える。いつの間に附着したものやら底も縁も青い苔《こけ》で色取られている。橋本と余は容赦なく湯の穴へ飛び込んだ。そうして遠くから見ると、砂の中へ生埋《いきうめ》にされた人間のように、頭だけ地平線の上に出していた。支那人の中には、実際生埋になって湯治《とうじ》をやるものがある。
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