まで屋根の下に寝た事は一度もなかったそうである。あるときは水の溜《たま》った溝《みぞ》の中に腰から下を濡《ぬ》らして何時間でも唇《くちびる》の色を変えて竦《すく》んでいた。食事は鉄砲を打たない時を見計《みはから》って、いつでも構わず口中に運んだ。その食事さえ雨が降って車の輪が泥の中に埋《うま》って、馬の力ではどうしても運搬《うんぱん》ができなかった事もある。今あんな真似《まね》をすれば一週間|経《た》たないうちに大病人になるにきまっていますが、医者に聞いて見ると、戦争のときは身体《からだ》の組織《そしょく》がしばらくの間に変って、全く犬や猫と同様になるんだそうですと笑っていた。市川君は今旅順の巡査部長を勤めている。

        二十八

 旅順の港は袋の口を括《くく》ったように狭くなって外洋に続いている。袋の中はいつ見ても油を注《さ》したと思われるほど平らかである。始めてこの色を遠くから眺めたときは嬉しかった。しかし水の光が強く照り返して、湾内がただ一枚に堅く見えたので、あの上を舟で漕《こ》ぎ廻って見たいと云う気は少しも起らなかった。魚を捕《と》る料簡《りょうけん》は無論無かった。露西亜《ロシア》の軍艦がどこで沈没したろうかなどと思い浮かべる暇も出なかった。ただ頭へぴかぴかと、平たい研《と》ぎ澄《すま》したものが映った。
 余は大和《やまと》ホテルの二階からもこの晴やかな色を眺めた。ホテルの玄関を出たり這入《はい》ったりするときにもこの鋭い光の断片に眼を何度となく射られた。それでも単に烈《はげ》しい奇麗《きれい》な色と光だなと感ずるだけであった。佐藤から港内を見せてやるからと案内されるまでは、とうてい港内は人間の這入るところではないくらいに、頭の底で、無意識ながら分別していたらしい。
 さあ行くんだと催促された時は、なるほど旅順に来る以上、催促されなければならんはずの場処へ行くんだと思った。今日の同勢は朝大連から来た田中君を入れて五人である。港務部を這入《はい》るときに水兵がこの五人に礼をした。兵隊に礼をされたのは生れてこれが初《はじめ》てであった。佐藤が真先に中へ這入って、やがて出て来たから、もう舟に乗れるのかと思ったら、おい這入れ這入れという。我々は石垣の上に立っていた。足元にはすぐ小蒸気《こじょうき》が繋《つな》いである。我々の足は、家の方より、むしろ水
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