らなければならないように伊藤君は頼むし、何だかやれそうもない気分ではあるし、かたがた安楽椅子に尻《しり》を埋《うず》めて、苦《にが》く渋り出した。すると橋本がにやにや笑いながら、まあやってやるさと傍《はた》から余計な事を云う。実を云うと、講演は馬車でホテルに着くや否や、ここの和木君《わきくん》からも頼まれている。もっともこの方《ほう》は暇がないので、頼《たの》まれ放《ぱな》しの体《てい》であるが、大連に帰ればそう多忙らしく見せる訳には行かない。橋本はそこをよく見破っているので、君そう云うときには快よく承諾するものだよとか君のような人はやる義務があるさとかいろいろな口を出す。余の大連でしゃべらせられたのは全くこの男の御蔭《おかげ》である。しかも短い時日のうちに二遍もやらせられた。その内の一遍では、云う事が無くって仕方がなかったから、私は今晩、なぜ講演というものが、そう容易にできるものでないか、すなわち講演ができない訳を講演致しますと云って、妙な事を弁じてしまった。それを是公《ぜこう》が聞きに来ていて、うん貴様はなかなか旨《うま》い、これからどこへ出て演説しようと勝手だ、おれが許してやると評したからありがたい。けれども勧告の本人たる橋本は、平気な顔をして、どこか遊んで歩いていて聞きに来なかった。そのくせ営口でまた頼まれると早速、君やるさ、せっかく頼むんだものと例の通りやり出したので、やむをえず痛い腹の上にかけていた蒲団《ふとん》を跳《は》ね退《の》けて、演説をしに行った。その代りおれが先へやるよと断って、橋本のは聞かずに、すぐ宿屋へ帰って来て、また腹の上に蒲団を掛けていた。橋本はこう云うところを見ると、君演説をやってる間は苦しいかなどと気楽な質問をする。もっとも招待を断ったり何かするときには、いや実際この男は胃病でといつでも証人に立ってくれた。して見ると、橋本はただ演説に対してだけ冷刻《れいこく》なのかも知れない。奉天でも危うく高い所へ乗せられるところを、一日|日取《ひどり》が狂ったため、いかな橋本にも、君頼まれたときにはやってやるべきだよを繰返す余地がなかった。京城では発着が前後した上に、宿屋さえ違ったものだから、泰然と講演を謝絶する余裕があった。これは偏《ひとえ》に橋本のいなかった御蔭である。
面白い事に、この演説の勧誘家はその後《ご》札幌《さっぽろ》へ帰るや否や
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