この辺の空気は内地よりも遥に澄んでいるから、遠くのものが、つい鼻の先にあるように鮮《あざやか》である。そのうちで高粱《こうりょう》の色が一番多く眼を染めた。
あの先に、小指の頭のような小さい白いものが見えるでしょう、あすこからこっちの方へ向いて対溝《たいこう》を掘出したのですとA君が遠くの方を指さしながら云った。この辺に穴を掘るのは石を割ると一般なのだから一町掘るのだって容易な事ではない。現に外濠《そとぼり》から窖道《こうどう》へ通ずる路をつけるときなどは、朝から晩まで一日働いて四十五サンチ掘ったのが一番の手柄であったそうだ。
余は余の立っている高い山の鼻と、遠くの先にある白いものとを見較《みくら》べて、その中間に横《よこた》わる距離を胸算用《むなざんよう》で割り出して見て、軍人の根気の好いのにことごとく敬服した。全体どこまで掘って来たのですかと聞き返すと、ついそこですと洋剣《サーベル》を向けて教えてくれた。何でも九月二日から十月二十日とかまで掘っていたと云うのだから恐るべき忍耐である。その時敵も砲台の方から反対窖道《はんたいこうどう》と云うのを掘って来た。日本の兵卒が例のごとく工事をしているとどこかでかんかん石を割る音が聞えたので、敵も暗い中を一寸二寸と近寄って来た事が知れたのだと云う。爆発薬の御蔭《おかげ》で外濠《そとぼり》を潰《つぶ》したのはこの時の事でありますと、中尉はその潰れた土山の上に立って我々を顧みた。我々も無論その上に立っている。この下を掘ればいくらでも死骸《しがい》が出て来るのだと云う。
土山の一隅《ひとすみ》が少し欠けて、下の方に暗い穴が半分見える。その天井《てんじょう》が厚さ六尺もあろうと云うセメントででき上っている。身を横にして、その穴に這い込みながら、だらだらと石の廻廊《かいろう》に降りた時に、仰向《あおむ》いて見て始めてその堅固なのに気がついた。外濠を崩《くず》した上に、この厚い壁を破壊しなければ、砲台をどうする事もできないのは攻手に取って非常な困難である。しかもこの小さな裂け目から無理に割り込んで、一寸二寸とじりじりにセメントで築上げた窖道を専領《せんりょう》するに至っては、全く人間以上の辛抱比《しんぼうくら》べに違ない。その時両軍の兵士は、この暗い中で、わずかの仕切りを界《さかい》に、ただ一尺ほどの距離を取って戦《いくさ》をした
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