と思うと、すぐ出している。出すときには、風呂敷の四隅を攫《つか》んで、濛々《もうもう》と湯気の立つやつを床《ゆか》の上に放り出す。赤銅《しゃくどう》のような肉の色が煙の間から、汗で光々《ぴかぴか》するのが勇ましく見える。この素裸《すはだか》なクーリーの体格を眺めたとき、余はふと漢楚軍談《かんそぐんだん》を思い出した。昔|韓信《かんしん》に股を潜《くぐ》らした豪傑はきっとこんな連中に違いない。彼等は胴から上の筋肉を逞《たくま》しく露《あら》わして、大きな足に牛の生皮《きがわ》を縫合せた堅《かた》い靴を穿《は》いている。蒸した豆を藺《い》で囲んで、丸い枠《わく》を上から穿《は》めて、二尺ばかりの高さになった時、クーリーはたちまちこの靴のまま枠《わく》の中に這入《はい》って、ぐんぐん豆を踏み固める。そうして、それを螺旋《らせん》の締棒《しめぼう》の下に押込んで、把《て》をぐるぐると廻し始める。油は同時に搾《しぼ》られて床下《ゆかした》の溝《みぞ》にどろどろに流れ込む。豆は全くの糟《かす》だけになってしまう。すべてが約二三分の仕事である。
この油が喞筒《ポンプ》の力で一丈四方もあろうという大きな鉄の桶《おけ》に吸上げられて、静《しずか》に深そうに淀《よど》んでいるところを、二階へ上がって三つも四つも覗《のぞ》き込んだときには、恐ろしくなった。この中に落ちて死ぬ事がありますかと、案内に聞いたら、案内は平気な顔をして、まあ滅多《めった》に落ちるような事はありませんねと答えたが、余はどうしても落ちそうな気がしてならなかった。
クーリーは実にみごとに働きますね、かつ非常に静粛だ。と出がけに感心すると、案内は、とても日本人には真似《まね》もできません。あれで一日五六銭で食っているんですからね。どうしてああ強いのだか全く分りませんと、さも呆《あき》れたように云って聞かせた。
十八
股野が先生私の宅《うち》へ来なさらんか、八畳の間が空《あ》いています、夜具も蒲団《ふとん》もあります。ホテルにいるより呑気《のんき》で好いでしょうと親切に云ってくれる。何でも股野の家の座敷からは、大連が一目に見渡されるのみならず、海が手に取るように眺められるのみならず、海の向うに連《つら》なる突兀《とっこつ》極まる山脈さえ、坐っていると、窓の中に向うから這入《はい》って来てくれるとい
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