う重宝《ちょうほう》な家《うち》なんだそうである。
 始めのうちは股野の自慢を好加減《いいかげん》に聞き流して、そうかそうかと答えていたが、せっかくの好意ではあるし、もともと気の多い男だから、都合によっては少し厄介《やっかい》になっても好いぐらいに思って、ついでの時|是公《ぜこう》にこの話をすると、そんな所へ行っちゃいかんとたちまち叱られてしまった。もしホテルが厭《いや》なら、おれの宅へ来い、あの部屋へ入れてやるからと云うんで、書斎の次の畳の敷いてある間を見せてくれるんだが、別に西洋流の宿屋に愛想《あいそ》をつかした訳でもないんだから、じゃ厄介になろうとも云わなかった。
 是公は書斎の大きな椅子《いす》の上に胡坐《あぐら》をかいて、河豚《ふぐ》の干物《ひもの》を噛《かじ》って酒を呑《の》んでいる。どうして、あんな堅いものが胃に収容できるかと思うと、実に恐ろしくなる。そうこうする内に、おいゼムを持っているなら少しくれ、何だかおれも胃が悪くなったようだと手を出した。そうして、胃が悪いときは、河豚の干物でも何でも、ぐんぐん喰って、胃病を驚かしてやらなければ駄目だ。そうすればきっと癒《なお》ると云った。酔っていたに違ない。
 余はポッケットから注文の薬を出して相手にあてがった。これは二三日前是公といっしょに馬車に乗って、市中を乗り廻した時、是公の御者《ぎょしゃ》から二十銭借りて大連の薬屋で買ったものである。その時は是公の御者に対する態度のすこぶる叮嚀《ていねい》なのに気がついて少しく驚かされた。君ちょっとそこいらの薬屋へ寄って、ゼムを買ってやって下さいと云うんだから非凡である。
 君は御者に対して叮嚀過ぎるよと忠告してやったら、うんあの時の二十銭をまだ払わなかったっけと思い出したように河豚の干物をまた噛っていた。
 是公の御者には廿銭|借《かり》があるだけだが、その別当《べっとう》に至っては全く奇抜である。第一日本人じゃない。辮髪《べんぱつ》を自慢そうに垂らして、黄色の洋袴《ズボン》に羅紗《らしゃ》の長靴を穿《は》いて、手に三尺ほどの払子《ほっす》をぶら下げている。そうして馬の先へ立って駆《か》ける。よくあんな紳士的な服装《なり》をして汗も出さずに走《かけ》られる事だと思うくらいに早く走ける。もっとも足も長かった。身の丈《たけ》は六尺近くある。
 別当と御者はこのくらいにし
前へ 次へ
全89ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング