だか》でボールトを外《はず》すと、はたして是公《ぜこう》が杖《つえ》を突いて戸口に立っていた。来るなら電報でもちょっとかければ好いものをと云う。どこへ行っていたんだと聞くと、ベースボールを観《み》て、それから舟を漕《こ》いでいたと云う挨拶《あいさつ》である。飯を食ったら遊びに来なさいと案内をするから、よろしいと答えてまた戸を締《し》めた。締めながら、おいこの宿は少し窮屈だね、浴衣《ゆかた》でぶらぶらする事は禁制なんだろうと聞いたら、ここが厭《いや》なら遼東《りょうとう》ホテルへでも行けと云って帰って行った。
例刻に食堂へ下りて飯を食ったら、知らない西洋人といっしょの卓《テーブル》へ坐らせられた。その男が御免《ごめん》なさい、どうも嚏《くしゃみ》が出てと、手帛《ハンケチ》を鼻へ当てたが、嚏の音はちっともしなかったから、余はさあさあと、暗《あん》に嚏を奨励《しょうれい》しておいた。この男は自分で英人だと名乗った。そうして御前は旅順《りょじゅん》を見たかと余に尋ねた。旅順を見ないなら教えるが、いつの汽車で行って、どことどこを見て、それからいつの汽車で帰るが好いと、自分のやった通りを委《くわ》しく語って聞かせた。余はなるほどなるほどと聞いていた。次に御前は門司《もじ》を見たかと聞いた。次にあすこの石炭はもう沢山《たんと》は出まいと聞いた。沢山は出まいと答えた。実は沢山出るか出ないか知らなかったのである。
しばらくして、君は旅順に行った事があるかとまた同じ事を尋ね出した。少々変だが面倒だから、いやまだだと、こっちも前《ぜん》同様な返事をしておいた。すると旅順に行くには朝八時と十一時の汽車があって……とまた先刻《さっき》と寸分《すんぶん》違わないような案内者めいた事を云って聞かせた。先が先だから余も依然としてなるほどなるほどを繰り返した。最後に突然御前は日本人かと尋ねた。余はそうだと正直なところを答えたようなものの、今までは何国人《どこじん》と思われていたんだろうかと考えると、多少心細かった。
余は日本人なりの答を得るや否や、この男が、おれも四十年前横浜に行った事があるが、どうも日本人は叮嚀《ていねい》で親切で慇懃《いんぎん》で実に模範的国民だなどとしきりに御世辞《おせじ》を振り廻し始めた。せっかくだとは思ったが、是公との約束もある事だから、好い加減なところで談話を切り上
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