のと同じだから、一対《いっつい》を二つに分けたものだろうと思った。そのほかには長い幕の上に、大《おおき》な額がかかっていた。その左りの端に、小さく南満鉄道会社総裁後藤新平と書いてある。書体から云うと、上海辺《シャンハイへん》で見る看板のような字で、筆画《ひっかく》がすこぶる整っている。後藤さんも満洲へ来ていただけに、字が旨《うま》くなったものだと感心したが、その実《じつ》感心したのは、後藤さんの揮毫《きごう》ではなくって、清国皇帝の御筆《おふで》であった。右の肩に賜うと云う字があるのを見落した上に後藤さんの名前が小《ち》さ過《す》ぎるのでつい失礼をしたのである。後藤さんも清国皇帝に逢《あ》って、こう小さく呼《よ》び棄《ずて》に書かれちゃたまらない。えらい人からは、滅多《めった》に賜わったり何《なん》かされない方がいいと思った。
沼田さんは給仕を呼んで、処々方々《しょしょほうぼう》へ電話をかけさして、是公の行方《ゆくえ》を聞き合せてくれたが全く分らない。米国の艦隊が港内に碇泊《ていはく》しているので、驩迎《かんげい》のため、今日はベースボールがあるはずだから、あるいはそれを観《み》に行ってるかも知れないと云う話であった。
そのうち広い部屋がようやく暗くなりかけた。じゃどこぞ宿屋へでも行って待ちましょうと云うと、社の宿屋ですから、やっぱり大和《やまと》ホテルがいいでしょうと、沼田さんが親切に自分で余をホテルまで案内してくれた。
六
湯を立ててもらって、久しぶりに塩気《しおけ》のない真水《まみず》の中に長くなって寝ている最中に、湯殿の戸をこつこつ叩《たた》くものがある。風呂場で訪問を受けた試《ため》しはいまだかつてないんだから、湯槽《ゆぶね》の中で身を浮かしながら少々|逡巡《しゅんじゅん》していると、叩く方ではどうあっても訪問の礼を尽くさねばやまぬという決心と見えて、なおのこと、こつこつやる。いくらこつこつやったって、まさか赤裸《はだか》で飛び出して、室《へや》の錠《じょう》を明ける訳にも行かないから、風呂の中から大きな声で、おい何だと用事を聞いて見た。すると摺硝子《すりガラス》の向側《むこうがわ》で、ちょっと明けなさいと云う声がする。この声なら明けても差支《さしつか》えないと思って、身体《からだ》全体から雫《しずく》を垂らしながら、素裸《すっぱ
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