尋ねると、まだでございますと云う。留守《るす》では仕方がない。どうしたものだろうと思って、石の上に佇《たた》ずんで首を傾《かたぶ》けているところへ、後《うしろ》に足音がするようだからふり向くと、先刻《さっき》鉄嶺丸で知己《ちかづき》になった沼田さんである。さあ、どうぞと云われるので、中《うち》に入った。沼田さんは先へ立って、ホールの突き当りにある厚い戸を開いた。その戸の中へ首を突っ込んで、室《へや》の奥を見渡した時に、こりゃ滅法広いなと思った。数字の観念に乏しい性質《たち》だから何畳敷だかとんと要領を得ないが、何でも細長い御寺の本堂のような心持がした。その広い座敷がただ一枚の絨毯《じゅうたん》で敷きつめられて、四角《よすみ》だけがわずかばかり華《はな》やかな織物の色と映《て》り合《あ》うために、薄暗く光っている。この大きな絨毯《じゅうたん》の上に、応接用の椅子《いす》と卓《テーブル》がちょんぼり二所《ふたところ》に並べてある。一方の卓と一方の卓とは、まるで隣家《りんか》の座敷ぐらい離れている。沼田さんは余をその一方に導いて席を与えられた。仰向《あおむ》いて見ると天井《てんじょう》がむやみに高い。高いはずである。室《へや》の入口には二階がついていて、その二階の手摺《てすり》から、余の坐っている所が一目に見下《みおろ》されるような構造なんだから、つまるところは、余の頭の上が、一階の天井|兼《けん》二階の天井である。後《のち》に人の説明を聞いて始めて知ったのだが、このだだっ広い応接間は、実は舞踏室で、それを見下《みくだ》している手摺付の二階は、楽隊の楽を奏する所にできているのだそうだ。そんなら、そうと早くから教えてくれれば、安心するものを、断りなしに急に仏様のない本堂へ案内されたものだからまず一番に吃驚《びっくり》した。余は大連滞在中何度となくこの部屋を横切って、是公《ぜこう》の書斎へ通ったので、喫驚《びっくり》する事は、最初の一度だけですんだが、通るたんびに、おりもせぬ阿弥陀様《あみださま》を思い出さない事はなかった。
室を這入《はい》って右は、往来を向いた窓で、左の中央から長い幕が次の部屋の仕切りに垂れている。正面に五尺ほどの盆栽を二|鉢《はち》置いて、横に奇麗《きれい》な象の置物が据《す》えてある。大きさは豚の子ほどある。これは狸穴《まみあな》の支社の客間で見たも
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