穿《は》いていた。遠くから見たと同じように浮き立たない家であった。造作《ぞうさく》のつかない広い空家《あきや》へ洋灯《ランプ》を点《とも》して住《すま》っているのかと思った。這入るとすぐの大広間に置いてあったオルガンさえ、先の持主が忘れて置いて行ったものとしか受取れなかった。暗い廊下を突き当って右へ折れた翼《ウイング》の端《はじ》の室《へや》へ案内された。中を二つに仕切ってある。低い床には、椅子と洋卓《テーブル》と色の褪《さ》めた長椅子とが置いてあった。高い方は畳を敷いて、日本らしく取《と》り繕《つくろ》ってあった。ちょうど土間から座敷へ上《あが》るようにして、甲から乙に移る構造である。余はいきなり畳の上に倒れた。三四十分の後《のち》膳《ぜん》が出た。橋本がしきりに起きて食えと勧めたが、ついに起きなかった。第一食卓に何が盛られたかをさえ見なかった。眼を開ける勇気すら無かったのである。
四十三
朝起きると、馬が来たとか来ないとか云って橋本の連中が騒いでいる。連中は三人だから、一人が一つの馬に乗るとすれば、三匹|要《い》る訳になる。この茫漠《ぼうばく》たる原の中で、生きた馬を三匹|生捕《いけど》るとなると、手数《てすう》のかかるのは一通りではあるまい。連中は格別早起きもしない癖に、今更苦情を並べたって始まらないと思って、同行を断念した余は、冷然と落ちついていた。本来を云うと、千山《せんざん》へ行くのが目的で、わざわざここに降りたには相違ないが、一旦自分が千山行を諦《あきら》めたとなると、ほかの連中が予定通《よていどおり》に行動するのが、いまいましくなる。第一橋本なんて農科の男は、千山を見る必要も何もないのである。千山は唐《とう》の時代に開いた梵刹《ぼんさつ》で、今だに残っているのは、牛でもなければ豚でもない、ただ山と谷と巌《いわ》と御寺と坊主だけであるから、農科の教授がわざわざ馬に乗って見物に行くべきところではけっしてない。と云ってせっかく行くと云うものを、意見までして思い止まらせるほどの口実は無論考え出せないから、なすがままにさせて放《ほう》っておいた。そのうち不思議な事に、注文通《ちゅうもんどおり》馬が三匹出て来た。どこから出て来たものか聞いても見なかったが、たしかに出て来た。三人は癪《しゃく》に障《さわ》るほど勇んで外へ飛び出した。余は仕方が
前へ
次へ
全89ページ中74ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング