曠野《こうや》の景色《けいしょく》が眼の前に浮んでくる。けれども歩いている途中は実に苦しかった。飯の菜《さい》に奴豆腐《やっこどうふ》を一丁食ったところが、その豆腐が腹へ這入《はい》るや否や急に石灰《いしばい》の塊《かたまり》に変化して、胃の中を塞《ふさ》いでいるような心持である。腮《あご》の奥から締めつけられて、やむをえない性質《たち》の唾液《つばき》が流れ出す。それに誘《いざな》われるままにしておくと、嘔《は》きたくなる。せめて口中の折合《おりあい》でもと思って、少し抵抗しにかかると、足が竦《すく》んで動けなくなる。余は幾度《いくたび》か虫の音の中に苦しい尻を落ちつけようかと思った。ただ橋本に心配させるのが、気の毒である。支那の荷持《にもち》に野糞《のぐそ》を垂《た》れてると誤解されたって手柄《てがら》にもならない。そこで無理に歩いた。
遥《はるか》向うに灯《ひ》が一つ見える。余が歩いている路は平らである。灯はその真正面に当る。あすこへ行くんだろうと推測して星の下を無言に辿《たど》った。今日の午《ひる》は営口で正金銀行の杉原君の御馳走《ごちそう》を断った。晩は天春君《あまかすくん》の斡旋《あっせん》ですでに準備のできている宴会を断った。そうして逃げるように汽車に乗った。乗る時橋本にこの様子じゃ千山《せんざん》行は撤回だと云った。実際撤回しなければならないほど、容体《ようだい》が危《あや》しくなって来た。ただ向うに見える一点の灯火《ともしび》が、今夜の運命を決する孤《ひと》つ家《や》であると覚悟して、寂寞《せきばく》たる原を真直《まっすぐ》に横切った。原のなかには、この灯火よりほかに当《あて》になるものは一つも見つからないのだから心細かった。宿屋はたった一軒かと聞いたら、案内がええと答えた。湯崗子《とうこうし》は温泉場だと橋本のプログラムの中にちゃんと出ているのだから、温泉がこの茫々《ぼうぼう》たる原の底から湧《わ》いて出るのだろうとは、始めから想像する事ができたが、これほど淋《さび》しい野の面《おもて》に、ただ一軒の宿屋がひっそり立っていようとは思いがけなかった。
そのうちようやく灯のある所へ着いた。平家作《ひらやづくり》の西洋館で、床《ゆか》の高さが地面とすれすれになるほど低い。板間《いたま》ではあるが無論靴で出入《でいり》をする。宿の女は草履《ぞうり》を
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