「を」]顔をして、これは夏目博士と引き合した。すると妻君が御名前はかねて伺っておりますと叮嚀《ていねい》に御辞儀《おじぎ》をされるから、余もやむをえず、はあと云ったなり博士らしく挨拶《あいさつ》をした。だから橋本が博士に慣れ切って満洲を朝鮮へ渡るに何も不思議はない。余もいったんは彼の博士を撤回したようなものの、日を重ねるに従ってまた何だか博士らしい気持がし出した。それで道中つつがなく安奉線《あんぽうせん》を通って、安東県《あんとうけん》までやって来た。ところがここで橋本の博士がちょっと気に食わなくなった。安東県の宿屋の番頭がどう云う不料簡《ふりょうけん》か、橋本博士御手荷物のうちと云う札を余の革鞄《かばん》にぴたぴた結《いわ》いつけてしまった。腹が立ったが面倒だからそのままにしておくと次の宿屋で橋本と分れる事になって、向うの手荷物を停車場《ステーション》へ運び出す際に、余の奇麗《きれい》な革鞄《かばん》を橋本のものだと思い込んで、宿屋の小僧がずんずん停車場まで持って行ってしまった。余は冗談じゃないぜと云った。橋本は面白がって笑っていた。それだから、また博士にならない。

        四十二

 ここだと云うので、降りたには降りたが、夜の事だから方角も見当もまるで分らない。頼りに思う停車場は縁日の夜店ほどに小さいものであった。その軒を離れるとなおさら淋しい。空には星があるが、高い所に己《おのれ》と光るのみで、足元の景気にはならなかった。汽車路を通って行くと、鉄軌《レール》の色が前後五六尺ばかり、提灯《ちょうちん》の灯《ひ》に照らされて、露《つゆ》のごとく映ってはまた消えて行く。そのほかに何も見えなかった。やがて右へ切れて堤のようなものをだらだらと下りる心持がしたが、それも六七歩を超《こ》えると、靴を置く土の感じが不断《ふだん》に戻ったので、また平地《ひらち》へ出たなと気がついた。すると虫の音《ね》が聞えだした。足元で少しばかり鳴いてるような家庭的なものではない。虫の音《ね》だと云う分別《ふんべつ》が出た時には、その声がもう左右前後に遠く続いていた。我々は一つの提灯《ちょうちん》を先にして、平原にはびこる無尽蔵の虫の音に包まれながら歩いた。
 今考えると、なかなか風流である。筆を執《と》って書いていても、魏叔子《ぎしゅくし》の大鉄椎《だいてっつい》の伝《でん》にある
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