際限もなく蔓《はびこ》っている赤い草のあなたは薄い靄《もや》に包まれて、幾らか蒼《あお》くなりかけた頃である。あからさまに目に映るすぐ傍《そば》をよくよく見つめると、乾いた土ではない。踏めば靴の底が濡《ぬ》れそうに水気《みずけ》を含んでいる。橋本は鹹気《しおけ》があるから穀物の種がおろせないのだと云った。豚も出ないようだねと余は橋本に聞き返した。汽車に乗って始めて満洲の豚を見たときは、実際一種の怪物に出逢《であ》ったような心持がした。あの黒い妙な動物は何だと真面目《まじめ》に質問したくらい、異《い》な感じに襲われた。それ以来満洲の豚と怪物とは離せないようになった。この薄暗い、苔《こけ》のように短い草ばかりの、不毛の沢地《たくち》のどこかに、あの怪物はきっと点綴《てんてつ》されるに違ないと云う気がなかなか抜けなかった。けれども一匹の怪物に出逢う前に、日は全く暮れてしまった。目に余る赤黒い草の影はしだいに一色《ひといろ》の夜《よ》に変化した。ただ北の方の空に、夕日の名残《なごり》のような明るい所が残ったのである。そうしてその明るい雲の下が目立って黒く見える。あたかも高い城壁の影が空を遮《さえぎ》って長く続いているようである。余は高いこの影を眺めて、いつの間にか万里の長城に似た古迹《こせき》の傍《そば》でも通るんだろうぐらいの空想を逞《たくまし》ゅうしていた。すると誰だかこの城壁の上を駆けて行くものがある。はてなと思ってしばらくするうちに、また誰か駆けて行く。不思議だと覚《さと》って瞬《またたき》もせず城壁の上を見つめていると、また誰か駆けて行く。どう考えても人が通るに違いない。無論夜の事だから、どんな顔のどんな身装《みなり》の人かは判然しないが、比較的明かな空を背景にして、黒い影法師が規則正しく壁の上を馳《か》け抜ける事は確《たしか》である。余は橋本の意見を問う暇もないほど面白くなって、一生懸命に、眼前を往来するこの黒い人間を眺めていた。同時に汽車は、刻々と城壁に向って近寄って来た。それが一定の距離まで来ると、俄然《がぜん》として失笑した。今までたしかに人間だと思い込んでいたものは、急に電信柱の頭に変化した。城壁らしく横長に続いていたのは大きな雲であった。汽車は容赦なく電信柱を追い越した。高い所で動くものがようやく眼底を払った。
三十九
狭い小路《
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