を二冊出して、これへどうぞ同《おん》なじものを二つ書いて下さいと云った。同《おな》じでなければいけないのかと尋ねると、ええと答える。その理由は、夫婦別れをしたときに、夫婦が一冊ずつ持っている事ができるためだそうだ。
 こう書いて行くと、朝鮮の宴会で絖《ぬめ》を持出された事まで云わなくてはならないから、好い加減に切り上げて、話を元へ戻して、肥《ふと》った御神さんの始末をつけるが、余は切ない思いをして、汽車の時間に間に合うように一句浮かんだ。浮かぶや否や、帳面の第三頁へ熊岳城《ゆうがくじょう》にてと前書《まえがき》をして、黍《きび》遠《とお》し河原《かわら》の風呂《ふろ》へ渡《わた》る人《ひと》と認《したた》めて、ほっと一息吐いた。そうして御神さんの御礼も何も受ける暇のないほど急いでトロに乗った。電話の柱に柳の幹を使ったのが、いつの間にか根を張って、針金の傍《そば》から青い葉を出しているのに気がついて、あれでも句にすればよかったと思った。

        三十八

 窓から覗《のぞ》いて見ると、いつの間にか高粱《こうりょう》が無くなっている。先刻《さっき》までは遠くの方に黄色い屋根が処々眺められたが、それもついに消えてしまった。この黄色い屋根は奇麗《きれい》であった。あれは玉蜀黍《とうもろこし》が干してあるんだよと、橋本が説明してくれたので、ようやくそうかと想像し得たくらい、玉蜀黍を離れて余の頭に映った。朝鮮では同じく屋根の上に唐辛子《とうがらし》を干していた。松の間から見える孤《ひと》つ家《や》が、秋の空の下で、燃え立つように赤かった。しかしそれが唐辛子《とうがらし》であると云う事だけは一目ですぐ分った。満洲の屋根は距離が遠いせいか、ただ茫漠《ぼうばく》たる単調を破るための色彩としか思われなかった。ところがその屋根も高粱もことごとく影を隠してしまって、あるものはただの地面だけになった。その地面には赤黒い茨《いばら》のような草が限りなく生えている。始めは蓼《たで》の種類かと思って、橋本に聞いて見たら橋本はすぐ冠《かむり》を横に振った。蓼じゃない海草《かいそう》だよと云う。なるほど平原の尽きる辺《あた》りを、眼を細くして、見究《みきわ》めると、暗くなった奥の方に、一筋鈍く光るものがあるように思われる。海辺《うみべ》かなと橋本に聞いて見た。その時日はもう暮れかかっていた。
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