さんすい》に似たり」と揮《ふる》ってしまったあとである。その次にはどこどこ聯隊長《れんたいちょう》何のなにがしと書いてある。宿帳だか、書画帖《しょがちょう》だか判然しないものの、第三頁に記念を遺《のこ》す事に差《さ》し逼《せま》って来た。橋本は帳面を見るや否や、向《むこう》を向いて澄ましている。余は仕方がないから、書くには書くが、少し待ってくれと頼んだ。すると御神《おかみ》さんが、そうおっしゃらずに、どうぞどうぞと二遍も繰返して御辞儀をする。無論|嘘《うそ》を吐《つ》く気は始めからないのだが、こう拝むようにされて書いてやるほどの名筆でもあるまいと思うと、困却《こんきゃく》と慚愧《ざんき》でほとほと持て余してしまう。時に橋本が例のごとく口を利《き》いてくれた。この人は嘘を云う男じゃないから、大丈夫ですよ今に何か書きますよと笑っている。余はまた世間話をしながら、その間に発句《ほっく》でも考え出さなければならなくなった。
 同情してくれる人はだいぶあると思うから白状するが、旅をして悪筆を懇望《こんもう》されるほど厄介《やっかい》な事はない。それも句作に熱心で壁柱《かべはしら》へでも書き散らしかねぬ時代ならとにかく、書く材料の払底《ふってい》になった今頃、何か記念のためにと、短冊《たんじゃく》でも出された日には、節季《せっき》に無心を申し込まれるよりも苛《つら》い。大連を立つとき、手荷物を悉皆《しっかい》革鞄《かばん》の中へ詰め込んでしまって、さあ大丈夫だと立ち上った時、ふと気がついて見ると、化粧台の鏡の下に、細長い紙包があった。不思議に思って、折目を返して中を改めると、短冊である。いつ誰が持って来て載せたものか分らないが、その意味はたいてい推察ができる。俳句を書かせようと思って来たところが、あいにく留守《るす》なので、また出直して頼む気になって、わざと短冊だけ置いて行ったに違ない。余はこの時化粧台から紙包を取りおろして、革鞄の中へ押し込んで、ホテルを出た。この短冊はいまだに誰のものか分らない。数は五六枚で雲形《くもがた》の洒落《しゃれ》たものであったが、朝鮮へ来て、句を懇望されるたびに、それへ書いてやってしまったから今では一枚も残っていない。長春の宿屋でも御神さんに捕《つら》まった。この御神さんは浜のものだとか云って、意気な言葉使いをしていたが、新しい折手本《おりでほん》
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