口は利かなかった。
苦しい十五分の後《のち》車はまた停車場《ステーション》に着いた。御客はすぐ汽車に乗って大連の方へ去った。下女はみんな温泉宿へ帰った。余は独《ひと》り構内を徘徊《はいかい》した。いわゆる器械トロなるものは姿さえ見せない。そこへ駅員が来て、今|松山《まつやま》を出たそうですからと断った。その松山は遥《はるか》向うにある。余は軌道《レール》の上に立って、一直線の平たい路《みち》を視力のつづく限り眺めた。しかしトロの来る気色《けしき》はまるでなかった。
三十五
宿屋の者ともつかず、駅の者ともつかない洋服を着た男がついて来た。この男の案内で村へ這入《はい》ると、路は全く砂である。深さは五六寸もあろうと思われた。土で造った門の外に女が立っていたが、我々の影を見るや否や逃げ込んだ。手に持った長い煙管《きせる》が眼についた。犬が門の奥でしきりに吠える。そのうちに村は尽きて松山にかかった。と云うと大層だが、実は飛鳥山《あすかやま》の大きいのに、桜を抜いて松を植替えたようなものだから、心持の好い平庭《ひらにわ》を歩るくと同じである。松も三四十年の若い木ばかり芝の上に並んでいる。春先《はるさき》弁当でも持って遊《あそび》に来るには至極《しごく》結構だが、ところが満洲だけになお珍らしい。余は痛い腹を抑《おさ》えて、とうとう天辺《てっぺん》まで登った。するとそこに小さな廟《びょう》があった。正面に向って、聯《れん》などを読んでいると、すぐ傍《そば》で梭《おさ》の音がする。廟守《びょうもり》でもおりそうなので、白壁を切り抜いた入口を潜《くぐ》って中へ這入った。暗い土間を通り越して、奥を覗《のぞ》いて見たら、窓の傍《そば》に機《はた》を据《す》えて、白い疎髯《そぜん》を生やした爺《じい》さんが、せっせと梭を抛《な》げていた。織っていたものは粗《あら》い白布《しろぬの》である。案内の男が二言《ふたこと》三言《みこと》支那語で何か云うと、老人は手を休めて、暢気《のんき》な大きい声で返事をする。七十だそうですと案内が通訳してくれた。たった一人でここにいて、飯はどうするのだろうと、ついでに通訳を煩《わずら》わして見た。下の家から運んでくるものを食っているそうであった。その下の家と云うのがすなわち梨畠《なしばたけ》の主人のところだと案内は説明した。
やがて、山
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