た。薄く流れる河の厚さは昨日《きのう》と同じようにほとんど二三寸しかないが、その真中に鉄の樋竹《といだけ》が、砂に埋《うも》れながら首を出しているのに気がついたので、あれは何だいと下女に聞いて見た。あれはボアリングをやった迹《あと》ですと下女が答えた。満洲の下女だけあって、述語《じゅつご》を知っている。ついこの間雨が降って、上《かみ》の方から砂を押し流して来るまでは、河の流れがまるで違った見当を通っていたので、あすこへ湯場《ゆば》を新築するつもりであったのだと云う。河の流れが一雨《ひとあめ》ごとに変るようでは、滅多《めった》なところへ風呂を建てる訳にも行くまい。現に窓の前の崖《がけ》なども水にだいぶん喰われている。
そのうち雨が歇《や》んだ。退屈だから横になった。約十分も立ったと思う頃、下女がまたやって来て、ただいま駅から電話がかかりまして、これから梨畑へおいでになるなら、駅からトロを仕立てますがと云う問い合せである。雨が歇んだので、座敷に寝ている口実はもう消滅してしまったが、この上トロを仕立てられては敵《かな》わないと思って、わざわざ晴かかった空を見上げて、八の字を寄せた。
今から行って間に合うのかなと尋ねると、器械トロだから汽車と同じぐらい早いんだと云う話である。胃は固《もと》より切《せつ》ないほど不安であるが、汽車と同じ速度の器械トロなるものにも、心得のためちょっと乗って見たいような気がしたので、つい手軽に仕度《したく》を始めた。すると隣の部屋に泊っていた御客さんが三四人、十一時の汽車で大連へ行くとか云って、同じように仕度を始めた。それを送る下女も仕度を始めた。したがって同勢はだいぶんになった。その中に昨日《きのう》橋の途中で行き合った女がいた。それが余と尻合《しりあわ》せに同じ車に乗る事になった。互に尻を向けているので、別段口も利《き》かなかった。顔もよくは見なかった。が、その言葉だけはたしかに聞いた。しかも支那語である。固《もと》より意味は通じない。しかし盛んにクーリーをきめつけていた。その達弁なのはまた驚くばかりである。昨日微笑しながら御辞儀《おじぎ》をして、余の傍《わき》を摺《す》り抜《ぬ》けた女とはどうしても思えなかった。この女は我々の立つ前の晩に、始めて御給仕に出て来た。洋灯《ランプ》の影で御白粉《おしろい》をつけている事は分ったが、依然として
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