。あれは何と云う山だろうと傍《そば》にいる大重君《おおしげくん》に尋ねたら、大重君も知らなかった。大重君は支那語の通訳として橋本に随《つ》いて蒙古《もうこ》まで行った男である。余の質問を受けるや否やどこかへ消えて無くなったが、やがて帰って来て、高麗城子《こまじょうし》と云うんだそうですと教えてくれた。土人を捕《つら》まえて聞いて来たのだそうである。固《もと》より支那音《しなおん》で教わったのだが、それは忘れてしまった。
 濡《ぬ》れ手拭《てぬぐい》を下げて、砂の中をぼくぼく橋の傍《そば》まで帰って来ると、崖《がけ》の上から若い女が跣足《はだし》で降りて来た。橋は一尺に足らぬ幅だからどっちかで待ち合せなければなるまいと思ったが、向うはまだ土堤《どて》を下《お》りきらないので、こっちは躊躇《ちゅうちょ》せず橋板《はしいた》に足をかけた。下駄《げた》を二三度鳴らして、一間ほど来たとき、女も余と同じ平面に立った。そこで留まると思いのほか、ひらひらと板の上を舞うように進んで余に近づいた。余と女とは板と板の継目《つぎめ》の所で行き合った。危《あぶ》ないよと注意すると、女は笑いながら軽い御辞儀《おじぎ》をして、余の肩を擦《こす》って行き過ぎた。

        三十四

 明日《あした》は梨畑《なしばたけ》を見に行くんだと橋本から申し渡されたので、宜《よろ》しいと受合った上、床《とこ》についたようなものの実を云うと例のトロで揺られるのが内心|苦《く》になった。そのせいでもなかろうが、容易に寝つかれない。橋本はもう鼾《いびき》をかいている。しかも豪宕《ごうとう》な鼾である。緞子《どんす》の夜具《やぐ》の中から出るべき声じゃない。まして裾《すそ》の方には金屏風《きんびょうぶ》が立て回してある。
 明日になると、空が曇って小雨《こさめ》が落ちている。窓から首を出して、一面に濡《ぬ》れた河原《かわら》の色を眺めながら、おれは梨畑をやめて休養しようかしらと云い出した。橋本は合羽《かっぱ》ももっているし、オヴァーシューも用意して来ているのでなかなか景気が好い。ことに農科の教授だけあって、梨を見たがったり、栗を見たがったり、豚や牛を見たがる事人一倍である。早速用意をして大重君を伴《つ》れて出て行った。余はただつくねんとして、窓の中に映る山と水と河原と高粱《こうりょう》とを眼の底に陳列さしてい
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