かいっさい知らなかった。その上、これから先どことどこへ泊って、どことどこを通り抜けるのかに至るまで、全く無頓着《むとんじゃく》であったのだから橋本も呆れるはずである。しかし、おい鉄嶺《てつれい》へは降りるのかと聞いて、いや降りないと答えられれば、はあ、そうかと云ったなりで済ましていた。別に降りて見たい気にもならなかったからである。したがって橋本は実に順良な道伴《みちづれ》を得た訳で、同時に余は結構な御供を雇った事になる。
 いよいよプログラムがきまったので、是公に出立の事を持ち出すと、奉天へ行って、それから北京《ペキン》へ出て、上海《シャンハイ》へ来て、上海から満鉄の船で大連まで帰って、それからまた奉天へ行って、今度は安奉線《あんぽうせん》を通って、朝鮮へ抜けたら好いだろうとすこぶる大袈裟《おおげさ》な助言《じょごん》を与える。その上、銭《ぜに》が無ければやるよと註釈を付けた。銭が無くなれば無論貰う気でいた。しかし余っても困るから、むやみには手を出さなかった。
 余は銭問題を離れて、単に時間の点から、この大袈裟な旅行の計画を、実行しなかった。そのくせ奉天を去っていよいよ朝鮮に移るとき、紙入の内容の充実していないのに気がついて、少々是公に無心をした。もとより返す気があっての無心でないから、今もって使い放しである。
 立つ時には、是公はもとより、新たに近づきになった満鉄の社員諸氏に至るまで、ことごとく停車場《ステーション》まで送られた。貴様が生れてから、まだ乗った事のない汽車に乗せてやると云って、是公は橋本と余を小さい部屋へ案内してくれた。汽車が動き出してから、橋本が時間表を眺めながら、おいこの部屋は上等切符を買った上に、ほかに二十五|弗《ドル》払わなければ這入《はい》れない所だよと云った。なるほど表《ひょう》にちゃんとそう書いてある。専有の便所、洗面所、化粧室が附属した立派な室《へや》であった。余は痛い腹を忘れてその中に横になった。

        三十二

 トロと云うものに始めて乗って見た。停車場へ降りた時は、柵《さく》の外に五六軒長屋のような低い家が見えるばかりなので、何だか汽車から置き去りにされたような気持であったが、これからトロで十五分かかるんだと聞いて、やっと納得《なっとく》した。
 トロは昔軍人の拵《こしら》えたのを、手入もせずに、そのまま利用している
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